鳥取県退職記念講演
子どもたちから学びえたこと
~ 小児科医としての夢 ~
(お話した項目と要旨)
☆新生児医療の現場から (1) ツワモノの赤ちゃんに大谷は救われた・・・
*重症胎児・新生児仮死/まる3日間継続した痙攣重積/intact survival(後遺症の無い生存)
*超低出生体重児/高度の脳室内出血・交換輸血5回/intact survival
☆新生児医療の現場から (2) 医療成績 ~ 全国有数の実績
*極小・超低出生体重児の地域的な医療システム化(地域で出生した例の何割がNICU入院したか?)
*人工サーファクタントの保険適用(1987.10)前における極小・超低出生体重児の救命率
☆当時の教科書から外れた医療による救命例 ~ 教科書通りでは救命できなかった事例
*先輩の呟き“ミイラのように乾いた子はなかなか死なない”/超低出生体重児の輸液/EBMの限界
*遅発型B群β溶連菌性化膿性髄膜炎/劇症例の救命/高度に混濁した髄液の頻回・大量排液=排膿
☆新生児の重症感染症と母乳育児 ~ 母乳育児は感染症を減らす!!
*MRSA感染症の脅威 (仙骨部皮下膿瘍・骨髄炎・上顎洞炎・壊死性筋膜炎)/早期の母子接触による効果
*母乳育児により膿痂疹・カンジダ感染症(口内炎・肛門周囲炎)は激減/感染症を研修し難い母乳育児
☆新生児の適応能力と母乳育児 ~ 母乳育児は先進国では忘れられた文化に陥っていた!!
*母乳育児を推進した結果、死語となった“初期嘔吐”/母乳育児によりNICU入院例は皆無
*激減した“Wet lung syndrome”/UNICEFの10か条に則った母乳育児推進は新生児には福音
☆新生児・乳児の能力 ~ 表現はたどたどしいけれど、学ぶ力は極めて大きい!
*満期出生の成熟新生児は勿論のこと、32週出生36週相当早期産低出生体重児が追視している!
*生後2か月時が人見知り?・・・ 人を区別する徴候は早くに表出/乳児の表情・反応を見つつの診察
☆小児の診療は子どもからの情報入手が大切 ~ 諸検査は診察結果の裏づけとする診療姿勢が必須!
*新生児仮死の赤ちゃんの血液ガス/肺炎の子のCRP/脱水症の有無・程度
*ウイルス性髄膜炎の診断を下したら抗生物質を用いない医療の実践
☆救急診療現場における子どもの反応 ~ 子どもに信頼されてこそ、病態や発達の本物が診られる!
*髄膜炎兆候の除外/シャツの絵柄等を指差して「ア!これカッコイイ」「カワイイネ:これは何?」
*子どもにゆとりがあると現れる“スイングサイン”は4か月乳児から9歳頃の学童まで:重症度評価
☆小児がんの子どもたちと養護学校 ~ 一般校で見失われている教育の本質がある!
*瀰慢性肝転移を伴う膵芽腫の学童における3回の自家骨髄移植/今や逞しい国立大学生
*ファロー四徴症+片麻痺+悪性リンパ腫/化学療法中のテレビゲームと学校教育:医療と教育は両輪
☆社会小児科学 ~ 保険診療の点数で計れない“小児医療”の領域と小児科医の使命がある!
*事故予防:浴槽における溺水防止/洗い場から浴槽の縁までの高さと1歳児の重心・・・転落防止の盲点
*子育てQ&A:ホームページは有名!
~ 国内各地、英国、タイなど国外在住の日本人からのメールでの相談に応需
☆智頭病院・智頭町における小児医療 ~ 小児科医としての夢:子どもたちといつまでも
*発端 7月人事「院長先生、大谷を子どもたちに返してください」とのお願い~武田先生はOK!(7.14)
*子どもの自立を促す医療/保護者の子育て支援/保健・福祉や教育における参画/NPO活動なども
< 御礼・感謝 >
鳥取県立中央病院に育てられた小生・皆様のおかげで今に至っている小生
*鳥大脳研神経小児科(在籍1年半弱)出身の至らぬ身/1977年末には急性肝炎で中央病院に入院体験
*素人が骨髄移植の院内組織開発を担当:兵庫医大輸血学教室・国立がんセンター中央病院小児科に深謝
*オーダリング体制構築/外来棟建設 ~ hospital healing art との出会い・玄関棟大壁面のデザイン
*ボランティア委員会活動:病院ボランティアの皆様に感謝/各種演奏会・作品展の開催
*第1回鳥取市勤労青年海外研修団(1990.10.29~11/7) :初渡欧
*全自病協 西欧医療施設視察(1997.11.17~29) :医薬分業の本質等
*NKT、NHK、県教委各種委員会等の社会教育・文科省研究 ⇒ 鳥取県教育表彰(平成12年度)
*第17回国民文化祭 前夜祭(2002.10.12)“交響詩とっとり”都の大王役での演劇 ⇒ 知事からの感謝状
*安東吾郎先生、竹下研三先生、白木和夫先生、岩宮 緑先生、牧野禮一郎先生、・・・先輩各位~後輩達
*医師として26年半になる小生:中病では卒後2年目の研修を含め23年半の勤務 ~ ありがとう!!
2003/10/29 大谷恭一
安東吾郎先生、牧野禮一郎先生は故人となられています。合掌 ('10/9/14 記)
竹下研三先生も故人となられています。
('19/4/22 当直の夜に up)
[稀有な再会] 2021/3/6 [記念写真]
その方から電話をいただいたことが端緒となり、自宅に来ていただけた。再会は、ハテ・・・ 30年以上の経過か。その方(Fさん)との出会いは、中央病院時代で、当時37歳だった。
*素人が骨髄移植の院内組織開発を担当:兵庫医大輸血学教室・国立がんセンター中央病院小児科に深謝
中病の退職記念講演の<御礼・感謝>にある上記の一行に係る重要人物がFさんで、彼が「骨髄移植への道」なるドキュメントを作成しなかったら、かつ、日テレで全国放映されなかったら、或いは、国立がんセンター中央病院小児科との接点が希薄になっていたのかも知れない。
彼に“付きまとわれ”た成果、仕上がった作品を、同院で(内科に先駆けて)骨髄移植を導入していた大平睦郎先生・チームがご覧になっていたのです。
難治の悪性腫瘍の児童(K君)を救命する唯一の可能性を秘めた自家骨髄移植(当時の表記;自家造血幹細胞移植)を、(神経、新生児医療などは手掛けていたが、悪性腫瘍、血液疾患のド素人である小児科医の)門外漢が初めて訪れた道場に「頼もう!」と、症例の詳細を持参して相談しに訪れた際に、上記ドキュメント「骨髄移植への道」の“主役の小児科医” か!と、すんなりと姿勢を知っていただけたのでした。
「骨髄移植への道」は、中病に同種骨髄移植(同種造血幹細胞移植)を導入するに際して、当時、内科医の適任者がおらず、専門外の小生に白羽が当たり、「1か月程の内地留学をして、技術を得て来い」と半強制的に指令されたのが、1987年度の年明けの頃で、妻談「あなたは悩んでいた!」と。
中央病院ですから、あらゆる病態はこなしていましたが、しかし、白血病や悪性腫瘍での化学療法は、全く不得意でした。勿論、専門医・施設で学んだことはなく、全くの独学でしたから・・・。
小生に白羽の矢が当たったのは、チーム医療が必須なハイリスク新生児医療で成果を上げていたことなどがあったためでしょう。当時、関西地区で、同種骨髄移植を実践していたのは、大阪の府立成人病センターと兵庫医科大学輸血部(当時)でした。前者は、社会に骨髄移植の成果を啓発すべく、(難易度が高く、救命困難な)ハイリスク事例を避けて、世界標準のスタンダードリスク例を手掛けていました。一方、造血幹細胞のスペシャリストである 原 宏 先生率いる兵庫医大輸血部は、臨床研究的な要素を含め、ハイリスク例も手掛けていました。つまり、「従来の化学療法では救命ができない。“一か八か”取り組んで見よう!」と言う骨髄移植例が少なからずありました。
研修先には、当然!ハイリスク事例も含めていた兵庫医大として、「頼もう!」でした。病院は西宮市武庫川町にあります。武庫川にホームの一部がかかる阪神電車の急行電車で降りて、西へ、武庫川を渡り、徒歩5-6分程度の地の利で、となれば、そう阪神甲子園球場が至近です。
本末転倒ですが、西風に乗って、球場の(非コロナ当時の)応援の鳴り物・声が聞こえるのです。(西へ 1.8kmの地で、夕方以降、医局に居るとソワソワ感+;虎キチの医局の彼女はサッサと不在になるのが常・・・)
本論に戻ります。(いや、チョッとその前に・・・、1か月の研修期間の半ばが5月の連休:当日券で甲子園球場での初体験研修をしました。巨人戦で、レフト・三塁側は完売で、なぜか、ライトスタンドの席が得られたのです。バースの放ったライナーがライトスタンドに矢のように飛び込んだことなど、懐かしい良き思い出です。
小生は隠れ虚人不安で、熱血虎吉が集う中で、巨人が大量得点を挙げる一方的な試合は心苦しゅうアッタ!
これ以降、猫属の妻を誘い、ライトスタンドで、妻の代わりに大声で偽の虎応援を、開き直って、繰り返してきました。なお、交流戦ではロッテの応援が怖かった。
巨人の応援はグルグルの単調・ダ作で、やはり虚人・・・。この見方は、寅さんも、きっと共感し、虎の味方をするでしょうネ!そう言えば、寅さんが野球観戦をしたシーンを思い描けない。小生は偽寅さん不安?!
自身、覚えた[六甲颪]をバリトンで高らかに歌いますが、試合終了後に歓喜して歌う機会が稀有な、ダメ虎が続き、ネコ族故に、熱意を失った彼女は、この数年は、“熱心に”誘っても相手にしてくれません。自身は、球場の雰囲気自体が好きで、隙あらば・・・ですが、マスクと手拍子ではダ~メ・病めるので止めます。
なお、甲子園球場での交流戦ではロッテの応援が怖かった。一方、巨人の応援はグルグルの単調・ダ作で、やはり虚人・・・。この見方は、寅さんも、きっと共感し、虎の味方をするでしょうネ!そう言えば、寅さんが野球観戦をしたシーンを思い描けない。小生は偽寅さん不安?!
今度こそ、本論に戻ります。
兵庫医大輸血部での研修は、1987年4月半ばからの1か月でした。当時、阪神野田駅至近の鳥取県の宿舎(:朝飯を食べて、夜遅く、寝に帰る安宿)があり、ここを基地として阪神急行で日々通いました。
兵庫医大輸血部での骨髄移植は全て同種で(自家骨髄移植は保険診療外で、臨床研究が始まろうとしていた時世)、かつ、事例は多くありません。研修期間中には、再生不良性貧血の若い成人女性1例のみでした。
となれば、どのような研修をするか・・・。自身が申し出て、「Early Death(移植後早期死亡)例のカルテを見せて!」と頼み、種々の病態で、“一か八か”骨髄移植を行ったが、重症感染症等で救命できず、生着(骨髄での造血の回復)を見る前に死亡された方の、全て成人例ですが、カルテを詳細に見ていったのです。
ド素人の強みで、“分からないことは聞くしかない”わけで、“知ったつもり”は危険です。アレコレと、勿論、内容は覚えていませんが、医局員に聞きまくりました。
当時、講師だった甲斐先生や同世代の医局員は丁寧に答えてくださいました。一方で、きっと余りにも基礎的な質問が相次ぐことで、彼らは「こんなことで研修になるのだろうか?」と訝っていたようです。
頼み込んで、時間外になると秘書が使用してた医局のワープロ機(懐かしいSANYO製)を使わせていただき、自身の理解を文字化し、諸先生に確認し、理解を正しく文字化し、学びを積み重ねていきました。
骨髄移植の適用となる白血病などは多種あります。多種多様な病態に施されたが Early Death に終わった例のカルテを見て、質疑を終えるころには、かなり、突っ込んだ専門性が高まった内容や、改善できそうな手順等に係る提案も始めていたようでした。
次いで、月日を経て死亡した例のカルテも見せてもらいつつ、自身でマニュアルを書き始めました。
さらに、成功例、つまり、骨髄移植の成果で救命し得た事例のカルテを見せてもらい始めました。そして、医局の皆から、「これ以上の事例はない」との所まで来ました。
研修途中に、悪性リンパ腫の彼女の同種骨髄移植ドナーの造血幹細胞採取術に立ち会うことができて、小生も参加が許されました。
1か月間の内地留学研修を終える際に、送別会を開催してくださいました。かつ、自身が作成したマニュアルは原先生の目にも留まり、医局への提供を求められました。
全く想定外のことでしたが、いわば兵庫医科大学輸血部が取り組まれた多くの事例の学びが網羅された“失敗しないための指針”が評価されたことに、内心驚くとともに、信を得たことの証として、自己評価した次第でした。
作成したマニュアルを中病に持ち帰り、かつ、中病での同種骨髄移植第一例(:急性リンパ性白血病の若い女性Mさん)においては、甲斐先生に来ていただき、直接指導を仰ぎながら、中病の骨髄移植がチームとして機能しました。主治医は内科の患者さんなので新進気鋭のT内科医でした。移植は成功しましたが、後年、別の悪性腫瘍を発症し、ご他界されたとの報を得たことは無念でした。
人口が少ない鳥取県東部医療圏(:3次医療は県中部、兵庫県但馬地区も)では、同種骨髄移植の適応例は希少です。誰が言い始めたか定かではなりませんが、自家骨髄移植を導入する話が出てきました。
当時、自家骨髄移植を実践していたのは、同種と比べてさらに希少で、東海大学医学部付属病院(伊勢原市)と国立がんセンター中央病院(築地)でした。羽田空港ないし東京駅からの利便性からすると、後者を選択することになります。かつ、後者は小児科のみが実践していたことと、さらに、全くの偶然ですが、発熱と腹部膨満で診たK君が、肝臓に多発転移した難易度の高い悪性腫瘍(芽腫;膵臓原発の膵芽腫)で、手術適応はなく、化学療法にも限界があることは明白でした。この事例に出会った直前に自家骨髄移植導入の話題が出ていたのです。
結果、冒頭に記した通り「頼もう!」で、ある意味では全く非常識な頼み方を、事例情報を持参し、頼み込んだのです。はっきり言って、無謀です!
幸い、「自家骨髄移植への道」を指導者の大平睦郎医長や医局員が、年末の深夜に見ておられ、このこともあって、好意的に応接してくださったのだろうと確信しています。
1988年夏の盛りでしたが、その後は、病状経過を授受しつつ、芽腫の特性を考量した独自の化学療法で治療を続けました。幸いなことに、秋になって解熱し、病態が小康状態にあったタイミングで、がんセンター中央病院の「(小児科が確保していた)手術室の枠が空いたから」と連絡があり、患児・親と、小生も上京しました。
全身麻酔下、骨髄血(に含まれる幹細胞)を無菌的に採取するために手術室で実施するのですが、小生も手技に立ち会うことが許されました。かつ、委ねられた作業をこなしつつ、採取、処理等、手術室で可能な手技を経験することができました。
自身にとって、3回目となる手術室での手技でしたが、小生の経歴を知らないがんセンターのチーム員は「アメリカのどこで研修して来られましたか?」との問いもありました。それ程までに、チームの作業の流れに溶け込んでいたようで、希少な技術・作業手順であったための問いになったとの理解をしています。小生を知る大平先生は、敢えて答えずに笑顔でした。印象的に覚えています。
自家骨髄移植は、同種と異なり、採集した造血幹細胞をプログラムフリーザーで液体窒素(氷点下 196℃)に細胞が生きた状態で凍結保存し、この後、致死量の化学療法(や放射線療法)を行い、がん細胞を死滅させる(と同時に、自身の骨髄細胞も死滅する)が、自家骨髄幹細胞を体内に戻し、骨髄機能の回復を図る先端医療です。
小生はとんぼ返りでしたが、K君は自家骨髄造血幹細胞採取後、採取した傷口が癒えてから、鳥取に帰りました。そして、大平先生たちが決めてくださった化学療法プログラムをこなし続けました。
が、残念ながら、1989年を迎える頃には肝臓の腫れが一層強くなり、横隔膜を押し上げる(肺が狭くなる)ほどで、横になってなると息苦しくなり、肝臓が重量で落ちるため多少楽になる)座位・起坐呼吸で夜を過ごすようになりました。同時に、高熱が断続し、化学療法の限界が明らかになりました。内心、敗血症、肺炎・呼吸不全での急死も覚悟しました。
がんセンター大平先生たちの思いとも一致しましたが、せっかく自家骨髄造血幹細胞が採取・保管してあるし、一か八かで移植をするか・・・。
高熱が断続する中、命がけで、超致死量の化学療法を指示し、自身は唯一のタイミングで上京し、K君の造血幹細胞を、液体窒素から(プログラムフリーザーで)徐々に復温し、ドライアイスを入れた搬送用の機材で、新幹線で持ち帰りました。搬送、つまり、手で持って歩くと、どうしても揺れに伴い、ドライアイスから発する白煙が機材から漏れ出ます。
駅係員や車掌に理解してもらえるように、“免罪符”的な「医療用・重要」などと、「国立がんセンター中央病院から鳥取県立中央病院への移送」を明記した書類も持参してのことでした。搬送機材からドライアイスが枯渇したらアウト!です。祈る気持ちをも抱きつつの道中でした。(なお、指定席は横並びの2席を確保し、他の乗客の目を気にしながらの車内でした。幸い、静置中は、白煙は極わずかでした。)
日が暮れた後、中病着。関係者が集う中(:拍手した職員もいましたが)、病棟に持ち帰り、機材を開け、ドライアイスの中から(通常の輸血用バッグに入った)K君の造血幹細胞が含まれる骨髄血を、(がんセンターの指示通りに)微温湯での解凍後、点滴ルートで、体内に戻しました。(造血幹細胞は、順調なら、居場所である骨髄に到着し、生着し、造血を始めます。一方、その過程で、生着に至らず、敗血症等で、致死に至る危険性もあります。)
結果、感染症で死に至ることなく、4月上旬には彼の骨髄が回復し、肝臓が縮小したのです。
1989年度当初のことでした。当時、国の研究費で「自家骨髄移植の臨床応用に係る研究班」の発足期に一致していたことで、大平先生から「研究班員になってくれ」と請われました。最初は、冗談と思い込んでいました。何せ、メンバーを見ると、小児医療センターの責任医や大学の教授など、同分野の著名人が連なっていましたから・・・。小生は、ここでも全くの門外漢でした。
第一例が成功したことで、(保険診療対象外でしたが、県からの基幹病院における先端医療として)プログラムフリーザーなどが導入され、かつ、事例を重ねる度に、必要とした医療費等の補填(:1例毎に100万円と記憶)もありました。
これらが達成し得たのは、幸い、大平先生の出身大学と同じ大学出の(内科医転じて)病理を担当していた同世代のN君が居てのことです。大平先生にも容認していただけて、研究班活動で、上京する際には再々N君も同伴し、小生の発表を支援してくれました。
研究班は3年間が一つの区切りになります。終わるころには、がんセンター中央病院小児科の医師チームは勿論、病棟の師長さんたちとも懇意になりました。病院は、築地場外市場が至近なので、夜行で上京した際の朝食や仲間との昼の飲食、そして、夜は至近の(:西に隣接する位置)朝日新聞本社の記者が集う“赤ちょうちん”(:店名は失念)を体験するなどでした。
さらに、研究班が終了する際は、班会議後に箱根に移動し、初めて箱根に泊まり、全国の著名専門医仲間や医局秘書、病棟師長さんたちを含めて、打ち上げ会も体験させていただきました。
会食後の宴席は、ハイ!小生が主役となります。当時はセクハラもどきの表記・社会通念が無い(:小生が敬愛する“フーテンの寅さん”時代)でしたから、人生の大先輩だった師長さんとの密蜜ダンスなどナドで大爆笑・・・。
- 祈り -
K君は、肝臓が縮小した後も。腫瘍マーカー等の推移も考慮し、結果、(計算上)3回分相当の造血幹細胞が採取できていたこともあり、完治を図るべく、致死量の化学療法後の自家造血幹細胞移植を計3回実施したのです。彼は社会人となり、立派に働き始めました。
経過観察を兼ねて、智頭病院にもきてくれましたが、内科年齢となり、大量の化学療法を繰り返したことによる病状確認等の必要性もあって、小生が信頼するT君に委ねました。
が、残念なことに、彼も、別の病態で、ご他界されました。冥福をお祈りするばかりです。
さらに、お世話になり続けた国立がんセンター中央病院小児科医長だった大平睦郎先生は肺がんでご他界されました。(関連記事)愛煙家でした。
無念でしたが、冥福を祈るばかりです。
当時、同院小児科でNo.2 だった同世代の高山 順 先生は清瀬病院勤務を経て、ご開業され、当時と変わらない笑顔に親しみを覚えます。
兵庫医科大学病院の、当時、輸血部助教授だった 原 宏 先生は同大(内科:血液・腫瘍科)名誉教授、講師だった甲斐先生などとは年賀状の授受が持続しています。
そして、小生は、鳥取県立中央病院から国民健康保険智頭病院に異動して、18年目:齢70歳を過ぎて“今が一番若い!”と実感し、アレコレとチャレンジを重ねることができており、感謝至極です。
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◆ ヒョンなことから、本文を通読し、若干の訂正・加筆をしました。
今やカミサマに昇華されたわが猫虎さんが、「若い頃は無茶苦茶に働いていた」と述懐しています。小生は、今になって見ればその通りかも・・・と振り返ります。が、仕事以外においてもオツムは全快で、自動車に例えると、エンジン・車軸の劣化が皆無で、(塗装など、部品は傷んでいますが・・・、)感謝至極の日々です。2022/12/28 仕事納めの日 72歳と3か月余 16:51
Fさんのご健勝と、益々のご活躍を祈ります。
「珈琲大好き」と即答され、8種類程度から、選んでもらい「モカブレンド」を所望され、小生が淹れた珈琲を「旨い!」と(お世辞ですが)お褒めいただきました。かつ、「水洗い珈琲を知ってるか?」と。勿論、知りません。
= 戻る =
(2021/3/6 16:13)