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子どもたち・お母さん・お父さん・保護者の方・智頭町民の方へ

   感謝しつつ   

  ​[関連資料  

 鳥取県立中央病院(小児科部長、初代 医療局長)から異動後、2019年11月1日に17年目となりました。古希を迎えた身であり、智頭病院勤務をどのタイミングで辞すべきか、自問自答し、下記の要素に至りました。


1 ) 点滴が入らない。
 看護師には「①2回失敗した際。②1回失敗し、2回目に自信がない場合。③最初から無理と判断した際。何れかの際に、小生を呼べ!」との方針を貫いています。先日も3歳の脱水症を伴う外来点滴の際に、「2回失敗した」との連絡があり、小生は1回で入れました。


2 ) 診療における“慣れ ダレ 崩れ”に陥る。
 劇団四季 団員のいわば座右の銘ですが、診療の際、“慣れ ダレ 崩れ”を感じたら、“去れ!”で、辞めます。(つまり、子どもたちに接する際に、子どもたちの心に寄り添えていないと感じたら、辞めます。)


3 ) 通勤が辛い。勤務開始に遅延する。
 湖山からのJR通勤が10年近くになります。
 智頭駅到着は 8時10分とはありますが、実質8時11分前後です。勤務開始が 8時15分なので、“走れメロス”的の速歩で、階段は常時二段上りです。幸い息切れすることなく、始業時刻に間に合っている現状です。


4 ) 当直がつらい。
 約10年になりましょうか、年末年始は2回(12/30と 1/ 2)24時間当直を担います。子育て支援の一環としての方針です。かつ、毎月6~7回の当直が辛くなった際は、辞め時だと考えています。 
※ 注 


5 ) 当直のトリアージミス・不安がある。
 自身がトリアージミスないし不安を感じない場合は、認知症の始まり! 
 当直看護師が不安・懸念を抱く際は、(高齢者を含む全科)当直は止め!


 以上の他、家族の事情もあり得る可能性は否定できません。
 現状評価では、看護師の信任もあり、幸い 1~5 )に該当しません。(との認識です。)

 自動車に例えるならば、外観は塗装が剥げるなどしていますが、エンジン系、車軸、タイヤは万全で、安心して乗れる状態にあります。つまり、神経系、骨・関節・筋や心肺機能など万全です。(外観:頭髪が象徴的です。)実は、長年に及ぶ運動等の効果が、今になって明らかになり、身体感覚は年齢の半分ないし30年は若い・・・。

 当然ですが、30年以上前の自身の身体機能を知っていますので、比較が可能です。上半身・体幹・下半身の筋力が高まり、長年の腰痛がなくなり、平衡機能、手指機能も衰えていません。また、幼少期からのアトピー性皮膚炎も癒えて、現在、内服薬・外用薬は皆無です。同様に、アレルギー性鼻炎も軽癒しています。

 生活習慣病も、おかげさまで、懸念がなく、感謝至極です。

即ち、心身共に健康で、子どもたちに笑顔で向き合えています。


※ 注 : 病院当直免除で、小児科外来診療や、智頭町の子育て支援(保健・福祉や園医・学校医)を、智頭町、智頭病院から求められる場合は別です。
〇 乳幼児健診:乳児健診、1歳6か月児健診、3歳児、5歳児健診
〇 病児保育:町の事業主体で、病院(小児科医、同看護師)が支援
〇 児童虐待防止関係:支援ネットワークの(発足時から継続する)会長職
〇 園医:ちづ保育園・森のようちえんの園児健診、職員対象の講義など
〇 学校医:智頭小学校の児童、中学校生徒の健診 中3対象の性教育講演
    学校保健委員会への参加、講義等  感染事象の危機管理
〇 予防接種:個別接種となり、集団接種は皆無になりました。

     が、福祉課と連携して、任意接種を含めて実施しています。 汎感染症の危機管理 # 


# : 2009年、新型インフルエンザ対応の集団予防接種(国の情報を迅速・的確に掌握し、鳥取県内では智頭町のみが、東京都と同等の迅速性で実施)


 小児科診療は不採算部門($)ですが、(保健所の医師と同様、)危機管理を含め、子育て支援、保健・福祉を含め、広義の[小児医療]として機能しています。
 今後も、求められる限り、可能な限り、智頭町の子育て支援に尽くします。 
気づき:追記

 

= 以下は、ホームページ用の追加記述 =

$ : 2003年11月当初、お母さんたちにボランティアで集っていただき、小児医療への願いをお聞きしました。

 結果、願いは4つに集約されました。

〇 痛いこと(:採血、点滴など)は避けたい。

〇 放射線被ばく(:レントゲン検査など)は避けたい。

〇 入院はしたくない。

〇 入院したとしても早く帰りたい。

 以上、4つの願いは、歴史・国を問わず、古今東西・世界のお母さんたちの願いと言えましょう。これらを実践するためには、《子どもをしっかりと診る》力量が不可欠です。

 幸い、鳥取県立中央病院から智頭病院に異動するに際して、自身が幹として位置づけていたのは、《子どもの育ちを支援する医療》・《(単に、院内での保険診療に留まらず)智頭町との連携で、子どもたちの保健・福祉に貢献すること:健康増進医学・広義の小児医療》でした。

 この二つの幹は、お母さん方の4つの願いと合致しました。

 実績は、日本小児科学会学術集会、山陰小児科学会等で発表し、かつ、前者から求められて、2009年度の学術集会シンポジウムでの依頼講演も果たしました。主題は「過疎地におけるあり方:問題点・課題」でしたが、小生は、「過疎地病院における小児医療:医療圏一人小児科医の実践と夢」の内容で講演しました。

 つまり、小生が実践してきた小児医療は全国からも認められた水準に達していました。その後は、既述の[2 ) 診療における“慣れ ダレ 崩れ”に陥る]ことなく、今日に至っています。

 

 一方、2003年11月に智頭病院勤務が始まって間もなく、採血・点滴をする際に、人手が足りず、付き添いのご家族に、処置をするベッドサイドないしベッド上に居てもらい、子どもさんを励ます声掛けをしてもらいつつ、手技を行いました。例外はありますが、多くの乳幼児が 暴れない・泣き叫ばない ことに気づいたのです。で、現在では、小児科担当の看護師さんは交代してきましたが、智頭病院小児科の採血・点滴文化として定着しています。

 このことも、子育て支援の一環として、誇れることと自認しています。

 

 病状を悪化させないためには、循環を保持することが重要です。これが損なわれると、脱水症で、採血・点滴(・さらには入院)の対象に陥ります。このことを避けるために、具体的な家庭看護支援を意図しました。

 誇れる、重要な例として、具体的な水分摂取に係る提案です。

 

 ​実践の成果も学会で発表してきました。

気づき:追記

 過日気づいたのですが、今年度の智頭中3年生の生徒数と、今年度の智頭小1年生の児童数!

 子どもたちが減り続けている中で、智頭小1年生の児童数が智頭中3年生の生徒数より多いのです。

 先日の就学時健診における受診児が中3生徒数と同等数 : つまり、約10年間、智頭町の子どもたちが減っていないのです。町内の子どもたちは、[町内出生児+(森のようちえんなど)転入児-町外転出児]で人数が増減します。当然のことですが、智頭町の方針・取り組みや森のようちえん関係者のご努力の賜物であり、加えて、医療圏で唯一の小児科医である小生の存在が支援してのことならば、ありがたい限りです。幸い、森のようちえんを主宰するNさんやスタッフの方、保護者の皆様から小生の医療・診療を是としておられることもうれしいことです。

 続けている年数の長い順に・・・

@1 お風呂上がりの水シャワー 1983年初夏~

 真冬を含めて通年で36年以上 頭頂部から足先まで

 当直の際、早朝にもシャワーを浴びますが、早朝は水シャワーのみです。就寝前はお湯で石鹸も使って清め、最後は水シャワーですが、早朝は(:3時前だったりもしますが)最初から(冬場は「エイヤー」的に)水シャワーです。

@2 階段の2段上がり

 智頭病院の現在の建物は2005年2月から稼働しています。当初は外来からの入院の際に、点滴ボトルを持ち、エレベーターに乗り5階まで上がったこともありましたが、少なくとも10年以上、院内ではエレベーターに乗っていません。当直の際に病棟から呼ばれても階段2段上がりが基本です。(降りる際は、安全確保と膝への負担を避けるため1段ずつ)

 JR通勤(湖山駅⇔智頭駅)をするようになったのは還暦記念の一環としてですが、駅の跨線橋も常時二段上がりです。

 概算ですが、病院勤務の際は、日々二段上がりで150段以上の昇降を続けています。

*朝、智頭駅到着後、病院までは“走れメロス”的速歩と(3項で)既述しましたが、とくに難関は、駅舎から病院側に移動する際のロングストライドの2歩(踊り場が2か所)を含めて、25段を一気に上がる場面です。さらに、超えた後の道路面から病院の敷地へ二段上がりで6段、速歩後、病院玄関から出勤確認機がある2階まで(奇数段のロングストライド2か所を含めて)14段は最終の負荷で、梅雨から夏季の間は汗をかくので大変です。(一方、厳寒期は凍結した路面での転倒防止の配慮もあります。)

@3 JR通勤になってから徐々に整えてきたエクササイス

@3a 平衡機能訓練

3a1 自宅⇔湖山駅は(車道・歩道を分ける)歩車道境界ブロックの上を歩いています。

 歩車道境界ブロック(計測していませんが、10~12cm程度の幅・高さ)の上を歩き始めた当初は、目の位置、足元などの調整に困惑しました。今では難なく歩いていますが、しかし、雑念が入るなどで、稀に落ちそうになりますし、一度だけ転落・転倒したこともありました。油断大敵です。

 なお、冬場など日が沈んで暗くなった際は止めています。安全第一です。

 一方、歩幅と速度は適宜変えています。

3a2 湖山・鳥取間は常時、閉眼立位で、吊革等で体を支えない。

 鳥取駅1番ホーム発着の際は、ポイント通過が多く、急な揺れがあり、耐えるのが大変です。

 片足の移動(ホッピング反射)をすることもあり得ます。とくに、快速用の車両は揺れが大きくなります。

 加えて、朝、鳥取→湖山は、閉眼立位に加えて、手指の某訓練も継続しています。

3a2' 智頭駅から特急Sはくと号で帰宅する際、(上下左右の揺れが大きく、劣悪な乗り心地であり、目の疲労を来さないように閉眼・仮眠が常態ですが、)鳥取駅近くになって車内アナウンスが始まると(津ノ井駅界隈で)席を立ち、デッキに移動し、閉眼立位を保持しています。ブレーキによる速度の減衰時、ポイント通過時には、(振り子式車両であり、)急な激しい揺れとなります。立ち直り反射をせずに持ちこたえたら、自身を「是」としています。なお、立つ位置は、迷惑にならないようにドアと進行方向の壁面に背を向けています。後方に持ち答えられない場合は壁面に倒れこむことになります。

3a2'補 レトロなオレンジ色の(都会人が被写体として外観を再々撮影する)気動車の場合は、津ノ井駅から立ちますが、Sはくと号ほどの揺れはありません。減速の際は、トップスピードが異なるので分かりますが、ポイント通過時もヘッチャラです。

 ところが、智頭急行線の各駅停車量の車両は、ポイント通過時の揺れが大きく、持ち答えられないことが再々です。車体重量の違いによりましょうネ!

3a3 平衡機能訓練のオマケ : 還暦記念にネットで探して「あった!チト価格が高いけど買う!」で、医局の自席横においてあるのが、一本歯の高下駄で、商品説明には高さ14cmとありました。購入時に計測したら13.7cmでしたが・・・。

 幼少期に、バンカラ高校生が、いわゆる“天狗の下駄”を履いていたのを見て憧れたのでした。で、還暦記念に購入し、当直の際に気まぐれ的に履いて医局内を歩いています。高下駄に乗り降りする際、壁面などに手を置かずにバランスを取りながら・・・。

@4 上半身の筋トレと足関節のストレッチ

 JR通勤を開始したのは、(開始時期を覚えていませんが、)1・2年後からでしょうか、始めは因幡社駅到着後から約7分程度、やがて、用瀬駅から、そして、昨今は鷹狩駅到着前から、席を立ちエクササイズを持続しています。

 (?衆目:ほぼ智頭農林高校生主体の通学・通勤列車なので、新年度当初を除き、皆が無関心です。)

序章:吊り輪でのストレッチ、肩関節の回旋

本章:ドアノブでの上半身筋トレ、足関節のストレッチを4クール(サーキットトレーニング/1234 2234・・・8234と数えながら)

 ① ドアノブを引き寄せる:握力と上腕二頭筋、大胸筋

 ②a ドアの低い位置(腰の高さ程度)に指を開いて支え、膝・足関節を屈曲し、上下運動負荷での加重

 ②b 同、膝を伸展し、アキレス腱も伸展 ②abは腰帯筋群の負荷・筋トレも(:腰の強化)

 ①

 ③ドアの天井部まで、上肢を耳の横に置いて、指先で体重を負荷し、目一杯のストレッチ:僧帽筋の負荷も

 ①

 ④ドアノブを外にしっかりと押す:上腕三頭筋・肩甲筋群の強化も

 ①→②a→②b→①→③→①→④:以上を4クール

後章:吊り輪でのストレッチ、肩の回旋


 還暦年以降、私的生涯研修での休診はご容赦を! 2019年11月1日 記

智頭病院 小児科 満15年 (2018/10/31)

りんじの名札で使用中 : 娘が紙粘土で作成

​当時 5歳の孫娘が敬老の日に描いた似顔絵

過疎地病院における小児医療:医療圏一人小児科医の実践と夢

 

 智頭病院の当直・医師会急患診療所当番など 

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 関連する資料です。

 止むを得ず点滴をする際、皮膚を刺して針を血管に進める際に、当然ですが、痛みを伴います。病態を読み込んでの点滴実施であり、採血検査は、静脈に針を入れた際に、逆流する血液を活かして、“念のために採血検査”をしていることが大半です。

 結果、入院例における採血回数が 0~1 回の例が 94.5% であったという成績です。

 入院例で採血回数が 0回 が 24例ありました。

 約半数は、熱性痙攣を人生で初めて体験した例で、家族の安心のために入院経過観察しました。乳幼児を診察し、ウイルス感染症によう発熱とみて、かつ、脱水症がないとみた例です。つまり、採血検査、点滴をしなかった例です。卒業間もない医師ならば、指針に基づき、何のためにアレコレと採血検査をし、かつ、念のために点滴をするのが一般的です。

 なお、発熱間もない時期は、乳幼児か低学年児童においては、採血すると白血球が増えていることが通常です。かつ、白血球の分類では、細菌感染症を示唆する好中球の割合が増加します。♪1 

♪1 : 嘔吐をしている場合も、仮に、ウイルス性胃腸炎であっても、白血球・好中球が増加します。例え話で、「骨髄内などにヒマにしていた白血球が、“火事場の野次馬”のごとくに、末梢血中に多く入り込み、一時的に増加します。子どもの反応性が生き生きしているためです。免疫能が高い青年~青壮年の場合や、免疫応答が低下している高齢者とは異なります。大人とは異なる子どもの特性です」とネ。

 

 残りの半数は、ウイルス性胃腸炎で脱水症が進行していた例です。小生が実施しました。血管内に針が入っているはずだが、血液が逆流して来なくて、時間を経て、針の先端が閉塞したら困るので、「点滴をつないでみよう」と、看護師さんに促した結果、点滴が成功していた例です。ウイルス性胃腸炎で、脱水の治療が優先なので、敢えて、(データを確認するための)採血の追加をしなかった例です。

 智頭病院に異動した最初の数年は、例えば、他院においてみてもらっておられて、脱水が進行した例が少なからずありました。初診時から小生が診ることが多くなって、後記しますが、水分等の摂取に係る具体的な提案をするようになってからは、脱水症で点滴を必要とする例が激減しています。

 入院例における採血回数が 0~1回の例が約95%あったことは、「痛いことはしたくない」お母さん方の願いに沿う医療の象徴的な事象です。

 なお、採血回数が3回の 1例は、異動初期の頃、肝機能障害があり、鳥取市内の病院からの紹介例(:智頭町在住例)でした。採血が 2回の例は、病状把握のために止むを得ず・・・でした。

 

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 智頭病院に異動して間もない頃に、外来で点滴をする際に、看護婦(看護師)さんの応援が得られず、付き添って来院された保護者の方にお願いし、点滴をする処置ベッドの横に居て、乳幼児の手・腕を握り、励ましの声かけをお願いした次第でした。数例を経験すると、当時、小児科専属の看護師さんも「点滴の際に、泣き叫ばない・暴れない」と確信しました。

 その後、看護師不足の社会情勢があり、智頭病院小児科の看護師は固定制が崩れ、交代で支援してくれています。 

 が、智頭病院小児科の「伝統・文化になっているんあだなぁ・・・」と感じますが、誰一人、異論を言う看護師さんはいません。勿論、上手になって、小生が針を刺す機会が減ることが願いですが・・・。

 現状では、本ページの冒頭に書いた通り、看護師には「①2回失敗した際。②1回失敗し、2回目に自信がない場合。③最初から無理と判断した際。何れかの際に、小生を呼べ!」との方針を貫いています。

 現状では、どうやら、小生が最も上手なのかもしれません。

 

 なお、点滴が主目的でない、病態把握のためにせざるを得ない採血は、年に 1-2例程度までです。

 よって、点滴をせず、採血のみの実施例は、稀なので記憶に残ります。

 例えば、発熱を主訴とした、母乳育児中の乳児早期例は、活気が乏しく、(母親でもある)看護師さんに哺乳の様子をみてもらいましたら、「飲みが悪い」と。で、採血をしたら、炎症反応が強く、鳥取県立中央病院小児科に紹介しました。結果、[化膿性胸膜炎]~間違いなく、わが臨床医人生における最初で最後の例・病態でしょう。などナド・・・。

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 脱水症、脱水徴候を補正することは、子どもの健康増進、感染症を軽症で済ませるために必須です。体重の推移は大切ですが、外来診療(着衣体重を測定)における急性感染症では役に立ちません。客観的に分かり易いのが尿所見であり、看護師に委ねて、採尿をしています。(排尿後の診察結果での検尿指示は、時間効率・感染症のトリアージの観点や本人・保護者の負担の点で困ります。)

 受診児の年齢、体格、病状を考慮して、家庭での具体的な摂取量を提案します。嘔吐がなく、点滴では定番ですが、初期輸液相当の飲水目標を提案することも常です。胃腸炎などで、嘔吐があった例では、急がず、着実に・・・。

 結果・成果として、この数年(少なくとも3年以上)の間、3歳未満児の点滴(・入院)は皆無のはずです。

 外来点滴、入院例は、3歳以上、とくに、外来点滴は学童が(相対的に)多いのが現状です。

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 入院 0泊の6例は、深夜の受診・入院で、熱性痙攣が多く、旅行中の胃腸炎例もありました。同日の夕方・夜時間帯に病状が落ち着き、保護者の安心が得られての同日退院例です。

 8泊は、肝機能異常があり、鳥取市内から紹介入院となった例です。

 過半数が1泊、2泊までが約8割の結果は、お母さん方の願いである「入院したとしても、早く退院したい」願いにかなう結果と評価できましょう。平均入院日数が 1.7泊の結果は、集計した自身、驚いた次第でした。

 退院後の同一病態での再入院は皆無でした。つまり、退院後、自宅での家庭看護が上手く機能した成果でもあります。ただし、200例の集計後しばらくして、胃腸炎・脱水での入院例において、小生は「もう一晩、維持点滴を!」と促しましたが、保護者が子どもさんの様子をみられて「大丈夫だと思う」と退院されました。結果、再入院!

 

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 2006年8月下旬に智頭町担当者からの誘いがあり、検討会に参加しました。智頭町で「病児・病後児保育を実施」が主題でした。自身、無知で、その存在を知りませんでした。“井の中の蛙”に陥らないようにと、調べたら全国病児保育協議会があり、全国の病児保育研究大会があるとも知りました。(智頭町担当者も不承知でした。)

 翌年、2007年7月、海の日を活かした3連休に福岡国際会議場での開催を知り、演題〆切に間に合いましたので、智頭町で実施する際のシミュレーションを基に(無謀にも)申し込みました。結果、メインホールでの口演となりました。

 2007年度当初から智頭町の病児保育が始まり、6月末までの3か月間に実施した成果を含めて発表しました。参加してみると、病児保育を担う保育士と看護師が両輪で、医師が支えることの重要性が謳われていました。つまり、医師の理解・支援が得られずに困っている例が多かったのです。(同学会への出席は、この時限りです。)

 転じて、小児科医不足等の事情から、鳥取市立病院の小児科常勤医が皆無になった時期がありました。智頭病院は、長年、同院の産婦人科の支援を得て、毎週婦人科外来をしています。これに応えるべく、小生が毎週半日、市立病院に出向き、主として、いわゆる1か月健診、新生児室の診察を担いました。産婦人科外来の隣接地に、独立した建物として、病児・病後児保育室がありました。感染症のトリアージが出来る複数の部屋や専任職員など、恵まれていました。が、実施内容は、病児を外して、病後児保育に留まっていました。

 智頭町は、保健・医療・福祉総合センター(:この主要部門として智頭病院)内の空き部屋を活かし、保育園から保育士を派遣し、実施する方式です。つまり、空き部屋がない、保育士の派遣が出来ない場合は、受諾できないことになります。一方、飛沫・接触(経口)感染が大半を占める乳幼児の急性感染症の特性を大切にし、隣接する和室など、3部屋で4人(以上)の病児保育を実践した日も少なからずでした。

 小児科外来においては、朝、初診時にお母さんが職場の制服を着て来られ、「昨晩から発熱し、今朝も続いている」・「嘔吐し始めて、下痢も」・「発熱とゼーゼーで」などの困り感と、職場を休めないつらさ、家族等の支援がないことなどを訴えて来られます。

 病児保育に頼らざるを得ないご家庭であり、(本来なら入院適応の病状だが)入院しないで、何とかガンバロウと、病児保育担当の保育士さん、小児科外来担当の看護師さんが連携して、勿論、小生は具体的な水分摂取等の目標を立て、医療面での支援(:保育士・看護師の責任を軽減)します。

 本音としては、入院で点滴計画等を立てて診る方が、小生としては楽なのですが・・・

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 その後の入院児の推移は現在まで大同小異です。鳥取県東部医師会附属急患診療所の小児救急当番の回数はもっとも多い3人の一人です。

 

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 2009年当時の新型インフルエンザ汎流行から、早くも10年が経過しました。近年、日本のみならずですが、“過去に経験したことのないような大規模自然災害”が相次いでいます。残念ながら、やがては、またもや新型インフルエンザの汎流行に見舞われる可能性も皆無ではありません。情報を的確・迅速に掌握し、適切に行動することです。

 重要なことは、世界の中での日本の特異性を踏まえて、単に WHO 、日本の非臨床家的学者の見解を基に、国の事務官が安全担保で通達を出す内容にも疑義を抱きつつ、通達などが出てくるの先を見据えての対処です。

 2003年当時の SARS禍 の際もそうでしたが、国が当時出していた内容では、医師・看護師を被感染から守れない・・・と、最新情報を得つつ、それらを評価・分析し、先を読みつつ、対応策を講じていたことを思い出します。

蛇足:小生は、どうやら情報を得て、軽重を評価し、組み立てて行動する才能に長けているのかもしれません。

 1987年度に病院から託され、非専門でしたが、当時の“骨髄移植”プロジェクトを、信頼する仲間の理解・支援を得て導入したこと、とくに、“自家骨髄移植”については、1988年度中から国立がんセンター中央病院小児科医長(故 大平睦郎先生、お仲間)の支援を得て導入し、かつ、信頼されて1989年度当初に発会した“自家骨髄移植の臨床応用”に係る研究班の班員として迎えられました。要するに、無菌病床を有さない“地方病院”の一般個室に(ベッド上のみ無菌環境を整えるための)“クリーン・ウォール”を導入するだけで、成功させた背景には、どうすれば失敗するかの情報を得て、方策を構築し、マニュアルを整え、看護師さんたちなどと協働した成果でした。

 これらのことは、結果論であり、自身が気づき始めていることですが、ウィーン、スイスでの生涯研修内容然りです。

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 町報〔広報ちづ〕は、町民の方に智頭病院のことを知ってもらうために活かして良いわけです。小生が提案し、ほぼ毎月、[病院だより]として、掲載が続くようになりました。振り返れば、2009年度からで、10年が経過しました。掲載のない月は、原稿が計画していた部署から届かず、事務部担当者が小生にそのことを知らせるのが遅滞・欠落してのことでした。間に合うタイミングで情報を得た際には、急遽、小生が感染症等の情報を整えて、掲載〆切に、緊急避難的に間に合わせたことも数回ありました。

 前院長に原稿を託したら、「シリーズとしたい」意向があり、智頭町に願い出て、病院だよりが、2015年度途中から2頁構成になった経緯もありました。彼の文章は硬派であり、智頭町のマスコットキャラクターである“杉の町”を象徴する杉太くんと、町花である“ドウダンツツジ”の紅ドウダンからの命名である紅子さんを活かして、小生が整えました。6回、半年間で終了した後は、[幸せな人生とするヒント]のシリーズ標題で1年間、さらに、[幸せは 見つめ愛 育み合い]を1年半継続しました。その後、町から予算の関係などから、「病院だより」は単頁に戻りました。(例外月はあります。)

 そして、現院長2年目の2019年度(平成31年度、5月からは令和元年度)、小生は広報委員長を解かれ、今年度は原稿を求められることなく推移しています。(2019/11現在)

 が、病院HPは、作成経験者がおらず、かつ、原稿も相変わらず、各部署から新広報委員会が集めることが出来ないままで、現状を維持しています。結果、業者に委ねて、予算を浪費することなく、町のサーバーを使わせてもらう従来方式での維持です。で、相変わらず、無役の小生が病院HPの維持管理を担っています。

 蛇足ですが、自身は、公務員医師退職年齢を過ぎて4年目であり、自身の臨床医生活の終活を念頭に、現行の小児科HP内容を、本 wix 版で作成した個人HPにほぼ移行しました。

 病院HPは、当初から(:小生が保有していた)ホームページビルダーでの作成でした。年余を経ると、重たくなり、ファイル数も増えてきました。で、単なる記録性に留まるイベント内容等は、コマーシャルの入る業者のブログに掲載することを提案し、Yahoo ! ブログにリンクを設定し、up し始めました。例えて、テレビのNHKと民放のごとく。

 ネットコマーシャルの意義・効果が認知されるようになり、業者が無料で提供するブログに広告が目立つようになり、煩わしさを感じていました。で、探し得たのが wix 版でした。

 

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 町報〔広報ちづ〕にも用いましたが、各所から依頼を受けて講演する際に、(これまた結果論ですが)実に多くをオリジナルで作図・作表し、活用してきました。

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 オリジナルで啓発用にアレコレと作成しましたが、実際には、用いてお話しする度に、自身の大脳が望ましい方向で強化されているのだとの感覚をいだきます。

 深層心理の“マーフィーの成功原則”と、“アドラーの勇気づけの心理学”が、生き様の根幹として、自身には、息づいてます。そして、徐々に、着実に、人生をステキに生きる術を体得しつつあります。自家用車の運転然りで、とくに意図しなくても望む運転ができていることと同等です。練習し、いつしか熟達する過程と同じです。

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 感謝至極ですが、鳥取県立中央病院時代に、田舎都市の県立基幹病院であるがゆえに、多種多様な用務をこなしてきました。県教育員会の社会教育活動もその一つです。1990年度(:年度後半)に、当時の課長が予算を得て「いきいき鳥取っ子」のイメージをつくる(作る・造る・創る)研究に、当時の鳥大心理学教授、鳥取短大幼児教育学科の教授、退職後の著名校長と、医師では小生が委員に任じられ、論議を重ねました。

 一方、竹下首相当時、全国の市町村に[ふるさと創生]を願い、一律1億円を提供し、独自の活動を促したのです。鳥取市は、独自に1億円を追加し、2億円の基金を土台に、“勤労青年海外研修”を企画しました。前年度・平成元年度から、県立鳥取療育園の園長を(兼務でしたが)拝命し、1990年8月下旬の日曜日に、組合からの要求に園長としての見解を、当時のワープロ専用機“ミニ書院”で、自宅の居間で執筆していた際、真剣な表情に見えたのか、彼女が「何をしているの?」と尋ねてきました。で、西欧における施設福祉から地域福祉の動向、ノーマリゼーション云々と返答しました。彼女は古新聞などの階段下収納庫を開けてゴソゴソしていましが、「あった!」と小生に見せたのです。鳥取市報でした。この中に、第1回勤労青年海外研修団員募集の記事があったのです。

 既に、診療以外で、アレコレと院内外の用務を担っていたのですが、手帳を見ると摩訶不思議!催行期間前後が空白だったのです。募集要項には、鳥取市在住2年以上、4月1日現在40歳未満、所属長の推薦状や応募するに際しての動機・作文、面接などが記載されていました。で、彼女に「県職員でも資格があるか、否か」を、翌月曜日に市役所の担当部署への問い合わせを託しました。

 月曜日、午前中に「是」の電話があり、院長室に赴き、事情を話したら「マ、大谷はようやっちょうけん、行ってこいや」と推薦状を書いてくださいました。応募動機に係る作文も書き、・・・、合格!

 初めて、パスポートを取得し、初めての海外は、1990年10月29日、成田空港からの大英航空でロンドン直行便でした。Boeing 747-400機の機窓からシベリアを眺めつつの飛行・・・。

 今もなお機窓研修は生涯研修を兼ねた体力テストと位置づけています。

 と、前置きが長くなりましが、「いきいき鳥取っ子」の要素として「命」・「夢」を強調し、採択していただけました。個を太陽にイメージし、六つの要素・・・(略):

 当然とも言えますが、「いきいき鳥取っ子」を育むためには、まずは大人が「いきいき鳥取人」であり続け、かつ、各要素を高めて欲しいと気づき、願うようになりました。自身、この図に触れる度に「命・夢・創造・挑戦・表現・感動」に、今もなお共感しつつ、思いを新たにしています。 

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 関連しますが、大脳機能を自身で高めること・努力も極めて重要です。《大脳と幸せ》の図は、小泉首相当時に作りました。象徴は“構造改革”です。(数え年の70歳)古希になり、未だに大脳機能が高まっているのを実感しています。関連して、心身の健康が高まっていることも実感できています。

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 今になってみれば、自身、身体的・心理的な被虐待児として育ったとの診断・評価をしています。気性が荒く、終戦末期に徴兵され、本人談で「理不尽な体罰を繰り返された」こと、終戦後はソ連の捕虜になり、約2年間を生き抜いたこと(:戦友の死も少なからず体験したこと)から、兄弟喧嘩に際して、小生と二歳下の弟が並べられ、軍隊で受けたのと同様に、頬の平手打ち、手が痛いからと、スリッパでの叩きや、拳骨で頭を殴られなど・・・。ある時に、母親が泣きながら、親父にすがるように、「頭や顔は止めて!もしものことがあったら・・・」と。

 その後は壁に顔を向けさせられ、腰を曲げた姿勢で、臀部を・・・。

 乳児期から湿疹、喘息性気管支炎(=アトピー性皮膚炎、気管支喘息)を患い、母親は寝れない夜が再三再四・・・。身体的虚弱、体型は“骨皮筋衛門”・(耳介が立っていることもあり)“サル・猿”と揶揄されての育ちでした。叔父たちが集うと、“猿真似”をさせられ、小銭を放り投げられた思いでもあります。(母は、場の雰囲気を壊さないように振舞っていましたが、内面では泣いていたことでしょう。)

 自信のないまま育つのは道理であり、長じてからは、父の気性も持ち合わせていたこともあり、自虐的な言動も再三再四でした。ゆえに、森田ゆりさんの[怒りの仮面]は、実感として、共感的によく分かります。

 親父は他界しましたが、一度も心を許したことはありませんでした。身体能力が逆転した後も、ある種の緊張感を抱きながら会話をしていたのです。

※ 自身に自信が持て始めたのは、彼女との関係性が出来てからなのかもしれません。彼女は、今ではお強くなられ、名実ともに“カミサマ”・・・。 

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 外来診療においても、日常茶飯事的に「ありがとう・うれしい・ステキだ」を大切にすることをお話ししています。自身、着実に「ありがとう・うれしい・ステキだ」上手になってきているのだろうと思います。

 

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 かつては、依頼講演の際に、聴衆を男女別に起立してもらい、「大切な人、男性・夫なら女性・妻に対して、24時間以内に、ありがとうと言った人は着席を!」尋ねていました。立ったままの人には、なら、1週間以内にありがとうと言った方は着席を!」、さらに立っている人に、1年以内に・・・で、当時、高齢で(:今の小生より年下で)学識のある男性が最後の一人になりました。行儀の悪い大谷だからと断り、マイクを持って、その方にインタビューをすると「いやぁ、恥ずかしくて“家内”には、ありがとうなど、よう言わん」との返答でした。

 戦前までの教育、儒教の名残です。男女共同参画が唱えられて随分経ちましたが、今でも“主人”・“家内”の言葉が残っています。

 依頼講演が激減している昨今は、智頭中3年生を対象とした2時間枠の教育講演[性教育講演会]の際に、「ありがとう」のスライドを提示し、意義について解説しています。

 講演後、感想文が課題とされています。その複写を個人情報を外して、小生に届けていただいています。その中で、「ありがとう」の意義、自身で自身の大脳を育てる観点について、生徒たちは肯定的・積極的な感想を書いてくれます。

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 1990年代初期のスライドです。県教委の社会教育活動の一環として、整えました。今でも、わが人生の根幹をなしています。

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 鳥取大学医学部脳神経小児科での学びがある小生です。ゆえに、平成元年度から(:医療局長に任じられ、用務が増えるからとの理由だった由ですが、)13年間、鳥取療育園長を兼務でしたが担っていました。要は、子どもたち・お母さんたちから、自身が勇気づけられていたのです。現場感覚はとても大切ですが、このエネルギーの源である、療育園長の兼務を解かれた人事には喪失感を覚えました。勿論、やがては後進に園長職を託すことにしていましたが、唐突でした。

 療育園と共に敷地内に立地している鳥取養護学校の校医も担っていました。入学式、卒業式では、日頃着ない服を着て、胸にリボンも付けられ、校長の挨拶に次いで、学校医としてお話するのが常でした。

 命の大切さ、出会いの感動など、勇気づけるお話を根幹に据えていました。

 「あらゆる障害は、誰も望まなかったでしょう。・・・障害のある方は、命・健康の尊さを教えている。・・・」。小生も学びを得て、今に至っています。

 昨年度から、鳥取市医療看護専門学校の作業療法士学科で小児科学の講義を担っています。[障害・障碍、障がい、しょうがい]について、厚労省は今も「障害」を用いています。が、何故か、県、さらに、市町村は「障がい」を用いています。

 一方、ボケ老人は認知症のある高齢者など、呆けが認知症と、用語が変化し、定着しています。同様に、精神分裂病は統合失調症として定着しています。

 障碍、障害、障がい、しょうがい・・・ 私は、漢字の意味・歴史を承知で、障害を用いています。

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 作成したのは、県教委で地域活動を担っていた1990年代の某時期です。WHOの健康の要素を分かり易く理解する上で、精神的健康 Mental health を考えてみました。約30分程度で6つの要素が整ったことを覚えています。

 幸い、今でも軸ブレすることなく、6つの要素を大切にしています。

 誰しもが避けることのできない「老い」、「老いを受容すること」も心の健康の要素に含めました。幸い、現時点でも「ろうかは走ってはならない」ことが分かる程度で、心身とも健康で、かつ、身体能力的には若返っている現実に感謝至極です。(廊下は走ってはならない)

 

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 講演会などでの啓発資料を多く並べました。発端は数え年の70歳、古希を迎えての、自身に対する覚悟でした。覚悟の一つには、大学の同級生、歳の近い先輩、後輩のがんによる訃報に触れることが多くなったことがあります。彼女の弟が訪問診療を担っていますが、「がんだけは分からない」、つまり、健康であっても、マサカのがんが発症し・・・との実感です。勿論、小生にとっても、或いは、思いがけい癌・・・。

 屁理屈ですが、かつ、癌でお亡くなりになられた方、闘病中の方にとっては、不謹慎と評される文になることでしょうが、癌細胞も自身の体を構成していいた、命を連綿と受け継いできた細胞クンたちの一部です。自身、本音ですが、がん性疼痛を体験して良いとも思っています。

 どんなに痛いことか、どんなに辛いことか・・・との思いを抱きますが、一方、大脳と神経末端は微妙に、密接に連携し、機能しています。痛みを自身の細胞クンたちが、適切に機能することで、痛みは克服できる。その根本は、「感謝に始まる」で、いつ何時、痛みを伴う病態に出会った際でも「感謝を貫けることに祈り」をしています。今もです。

 転じて、歯・齲歯・虫歯 : 自身は小学校1年生の某時期以降、歯医者を受診したことがありません。

 誰にも、彼女を含め、口外してしていませんが、齲歯が進み、咬合時に痛みを伴い、やがてボロっと部分的に抜け落ちて・・・を繰り返してきました。疼痛に係る知覚神経は自然退縮し、疼痛は消失します。と共に、歯列が移動し、噛み易い状態になります。このことは、歯のエナメル質を(きっと)除き、細胞クンたちが、各々の細胞死・再生を繰り返す過程で適応した結果と実感しています。

 彼女・子どもたち・母を含め、世界の誰にも話したことがない、書いたこともない、わが歯に係る歴史を今! わが、奥歯は昨日はしていますが、形状的は“レ・ミゼラブル”(悲惨・哀れ)です。そう、頭髪と同様に・・・。

 あまりにも少ない前頭頭頂部の白い頭髪は、アルコールが入ると、即時的に赤く染まる皮膚とのコラボで、「紅白でめでたい」と、乾杯の音頭の際などにお話しし、笑いを得ています。

 ハイ。愛でたく、本稿を終わりにします。お笑いください。・・・ 感謝しつつ

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