※平成2年(1990年)10月20日、第12回「鳥取発達障害研究会」記念講演の記録
本講演記録は、小生が大切にしている中の一つです。
講 演 記 録
障 害 へ の 気 配 り
講師 : 高 橋 孝 文 先生
「障害」とは何でしょうか。1981年にWHOは国際障害者年を提唱しておりますが、ここに障害概念の確立があるのです。障害には三相性があり、それは「機能不全」「能力不全」「社会的不利」の三つをいいます。まず、これらを理解することが「障害への気配りの出発点」と考えるのです。「機能不全」は英語では impairement で、医療や理学療法の分野で対処するレベルです。「能力不全」disability は作業療法、学校の先生や保母さん方がかかわるレベルといえます。そして、障害があるために社会参加できないとか、障害に対する偏見などの「社会的不利」handicap があるわけですね。
皆さんね、私たちは一人ひとりが皆違うでしょう。個別的な理解のもとに進めることが大切なわけです。つまり「一人ひとりに社会的・体験的背景がある」ことを知って、対応を行うこと、これが「障害に対する第二の気配り」といえます。
皆さんは利き手でメモをとっていらっしゃいますね。ちょっと反対の手にペンを持ち替えて、ご自分の名前を書いてみてください。
{会場は少しざわついて、それぞれ自分の氏名を慣れない手つきで書き込んだ。}
皆さんね、書きにくかったでしょう。そして、上手く書けなかったでしょう。さぁ、ご自分の書かれた文字を眺めてご覧なさい。どこかで見たことがありませんか。そうですね、脳性麻痺の子や知的障害児が書いた字に似てきませんか。どうでしょう。利き手に関しては、幼少時から大脳に入力がなされており、自在なわけですが、反対の手はそうは行きません。また、多くの方が眼鏡をお使いですが、メガネを外したら視覚障害者といえるわけですね。視力障害者であることを、ふだんメガネをかけていることで忘れているというわけです。
これは障害体験を持っているか、持っていないかの問題です。ハンディキャップ・オリエンテーリング handicap orientaring ないし cap handy orientaring といい、「障害体験学習」として、健康な子ども達にトレーニングしていったわけです。日本ではボーイスカウトが取り入れて、トレーニングで生かしており、七つのテーマ、目・耳・ことば・手足・車椅子・松葉杖・知恵が遅れているなどから選択し、障害を体験学習するわけです。例えば、目隠しをすることで、目が不自由であることの体験を行うわけですね。
それから、盲学校の新任の先生は、先輩から目隠しをされて、視力障害のある子ども達に教えられながらの体験学習を行うわけです。聾学校では、耳栓をして、体験学習を新任の先生方がなさっているのです。私が留学した当時のことですが、盲学校で校長先生が私を紹介されたときのことが印象的でした。それは、言葉で分かるように、私の印象を生徒に話し聞かせるという、目の不自由な人に対したときの説明の気配りであったわけです。「障害を体験することでこそ得られる気配り」と言えるわけですね。
米国の車椅子バスケットチームが来日し、全国各地で転戦したとき、仙台で私もお手伝いしたのですが、「 HAVE A SEAT 」の横断幕を掲げて、体験学習を勧めていたのです。「HAVE A SEAT さぁ、車椅子に乗ってご覧なさい」というわけです。私は、実はポリオによって片方の足が不自由なわけですが、健側の下肢を骨折して車椅子に3か月間お世話になったことがあります。これを通じて、初めて車椅子の人の気持ちが分かったのです。また、子ども達が、自分たちと同じように私が車椅子の世話になっているということで、仲間意識というのでしょうか、喜びましたねぇ。車椅子の方は、目の位置が低くなっているわけですが、ことばかけをする際に、目の高さでお話しすることも大切な気配りの一つなのです。
「 Cap handy orientaring 」については、国際障害者年のとき、自治省の上級職員十数名が仙台において一日研修をなさったのです。この研修の内容については、私に任されたのですが、私は新旧の、また、構造の違う車椅子を15台用意してもらって玄関に置いたのです。私は言いました。「9時から12時までは、車椅子に座ったままで過ごしてください。但し、いろいろと揃えていますから、車椅子を乗り換えるときだけは立ってよしとします」とね。脳性麻痺児や車椅子で訓練している子ども達が喜びましてねぇ、自治省の皆さんは半日の間、慣れない車椅子の操作でお疲れになったようでした。「高橋先生分かりました」と応えられ、良い障害体験学習になったようで、その後に生かしていただけるものと思うわけです。それからね、書くのと食事は左手で(利き手でない手で)としたのです。さらに、レポートは400字でしたが、はじめの200字を左手で、201字目からを右手で書くように指示した訳です。これも良い体験学習になったろうと思いますよ。
脳性麻痺の特別学級、これは旧制度の当時でしたが、まじめな先生がいまして、授業計画をきちんと立てていらしたのです。ところが初めての授業で、おしっこの世話などで終わってしまい、計画したことが全く出来なかったというわけです。「教育以前のことをするのですか」と泣きついて来られました。以前の特殊教育の考え方は、カリキュラムを持って教えるというやり方だったわけです。これは気配りのないやり方といえます。教えたいことばっかり言っていたらダメで、「子ども達の言うこと、希望を聞いてみたら」と助言しました。子ども達を観察して対応することが、大切な気配りの一つといえるわけです。
障害児・者、高齢者を含め、社会福祉に関する最近の10年間は、地域福祉を具体的に展開する方向で進んで来ました。「施設福祉から在宅福祉へ」と転換し、地域でサービスが受けられるように、ノウハウを学び、蓄積してきたわけです。「施設福祉サヨウナラ、在宅福祉コンニチワ」ではなく、施設福祉のノウハウは生かされるわけです。「地域福祉を援助する役割、その拠点としての役割」が施設に求められているわけです。また、より地域に近づくためのプログラムを考えていくことも必要となるでしょう。理念としては「ノーマリゼーション normalization 正常化」があります。
ノーマリゼーションの発祥の地はデンマークで、ノーマリゼーションと発音します。ドイツ語ではノルマリザチオン、米英ではノーマライゼーションということになりますが、私はデンマークから出た言葉であるから、ノーマリゼーションと言っています。デンマークの哲学者ミケルソン氏は、戦前には反ナチス運動を行っていた社会学者ですが、知的障害児の処遇について検討することを国から課題とされたわけです。そこで彼は「健常者と障害者が共に生き抜く社会」、共存できる社会を主張したわけです。数年後に、彼は国の社会局長となり、1959年に「ノーマリゼーション法」を制定するに至り、地域福祉が強力に推進されたわけです。1963年、デンマークを訪れた私は、しっかり勉強し、資質を高めることが大切で、いいかげんでは出来ないと学んだわけです。ノーマリゼーションの理念は欧米に普及し、国連が受け入れることになりました。ここではもはや障害児に限定せずの理念に高まっていったのです。即ち、国連は1971年「精神障害者の権利宣言」を、1975年「すべての障害者の権利宣言」を提唱し、さらに「完全参加と平等の実現」をモットーとした「国際障害者年」へと引き継がれたわけです。昭和24年、1949年に、すべての人間は云々という、世界人権宣言が出されましたが、しかしこのとき、障害者の人権はまだ守られていなかったのです。
われわれは常に行政に頼ってきた経緯があり、行政主導型の福祉であったといえるでしょう。が今日、より進んだ住民参加の福祉を実現することが求められているのです。わが国の国会は、今年8つの法改正を行いました。これに先立つ審議会は3年を要したのですが、私も委員でした。
Human quality of humanity(人間性における人間の質)の向上、人間愛の心で地域が育ち、地域に根付いた福祉を推進していくこと、典型的にはボランティアということになりますが、これが大切になるのです。各地でこの土壌が培われていってほしいのです。そのために一人の市民として住民参加していくこと、その上で行政が支援してくれる体制が望ましいと思います。WHOの「健康 well being 」の定義は「その子なりに肉体的、精神的に健全な状態を保ち、かつ、社会的にも健全な状態が維持されること」ですね。生活、命、人生の、人格も含め、質を向上させながら、健全な営みが出来るようになること、これが目標となります。
国立療養所西多賀病院には、初めて筋ジストロフィー病棟が出来、そして、重症心身障害児 (者) 病棟が初めて80床設けられたのです。当時の近藤院長は、今、徳島にご在住ですが・・・、当時アナウンサーが「不幸な子どもを80人」云々と表現したのですが、これに対して「あなたは不幸のレッテルをなぜ言うのか、実に純真で、汚れのない心で生活している子ども達です」「不幸とは、不幸にしている大人がいるからで、あなた方が不幸な社会にしている」とお答えになったのです。「困った子ども達を持って大変だね」というのは、本当の心配りといえるのでしょうか。「どんな重症の子でも発達する」これは幸いなことです。
子どもに接するときの姿勢で、家庭、地域、人が変わる。「空気がおいしい」「通る人がジロジロ見ないから気持ちがいい」と脳性麻痺児が言いました。車椅子でルーブル美術館へ行ったら、ここにはスロープはないですよネ。若者がさっと寄ってきて、さっと介助して階段を移動させ、さりげなく去って行く。福祉の進んだ国だからエレベーターの案内が、と探すが無い。エレベーターの案内よりもっと良いものが「人の心配り」だと分かったのです。基本は、どんな小さい子でも、どんな重い障害の子であっても、言葉がなくても心を通わせることは出来る。このことをしっかりと知っておくことが大切です。
※平成2年(1990年)10月20日、第12回「鳥取発達障害研究会」記念講演の記録です。
一人でも多くの方にご理解をいただきたくて、講演内容を文章化しました。
※高橋孝文先生のご略歴
1947年、東北帝国大学医学部卒業。1956年、宮城県整枝拓桃園(1986年、宮城県拓桃療育センターに改称)園長。1989年、名誉院長。主要略歴:全国肢体不自由施設運営協議会会長、中央児童福祉審議会委員、その他、多数。
自身の再教育というのでしょうか、2001年1月27日、今は亡き高橋孝文先生のご講演をお聞きしてから10年余が経過しました。講演のために鳥取にお出かけになられた当時、鳥取療育園にもお立ち寄り下さいました。小生は当時、鳥取療育園の園長を拝命して1年半が経過した頃でしたが、その後、自身を高める上で、学生教育において、あるいは、療育園職員、養護学校の先生方など、発達障害児に関わりのある関係者や保護者の方々に、この記録のコピーをお渡ししたりしました。
本日、久しぶりに読み返し、学びを新たにしているところです。内容は、今なお、新しいと感じました。と同時に、啓発・社会システム等の道のりが長いなぁと感じる一方で、着実に望ましい方向に動きつつあると感じる面も持ち得ます。
今後とも、自身の歩みを通じて、大切にしていきたいと願います。
2008年 年の瀬 文責:大谷恭一
さらに約10年が経過した今、新たに読み返しても学びが深まります。温故知新 : 感謝しつつ・・・
(2018/ 9/13 当直の夜に)