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講 演 記 録

2018now-energy

第1回鳥取県東部周産期医療研究会 

1994年 9月 4日 鳥取県看護研修センター 

鳥取県東部地域における周産期医療の変遷
~ ハイリスク新生児医療の立場から ~

講師:大谷恭一

NICUで赤ちゃんの主治医になる機会がめっきり少なくなっている昨今の小生、なつかしい、かつての赤ちゃんとの出会いや話題を、赤字で追記 2001/11/21

◆ 昭和50年(1975年)6月

1】鳥取県立中央病院が現在の江津に新築され,乳児集中治療棟が開設されました. 

2】県の部長通達で,当院に対して,未熟児のNICUへの搬送が指示されました.
 原則として往診はしないことになっている鳥取県立中央病院ですが、唯一の例外は、ハイリスク新生児の搬送です。これは現在まで続いています。 

3】当時は,例えば極小未熟児は“サバイバルテスト”を受けた例において,NICUへの入院依頼がある状況でした.超未熟児が育つことは例外的との認識でした. 

4】麻酔科医の主導でやがてベビーバードが導入されましたが,実質的に稼働することはなく,未熟児の重症呼吸窮迫症候群(RDS)の救命例はありませんでした. 

 “サバイバルテスト”~積極的な治療行為を受けず,生存した症例が,いわば“生存のためのテスト”を受けて,NICU側に紹介される状況.つまり,死産の原因として“虚弱性”や“呼吸不全”が記載されていたりする医療の背景でした. 

*全国:この当時,ベビーバードR など呼気終末に陽圧が加わる新生児用人工呼吸器の開発により,未熟児のRDSの救命が可能となり,全国的にNICUが増えはじめ,かつ,NICUの地域的なシステム化が検討されました. 

 

◆ 昭和53年(1978年)4月

5】県東部地域における極小未熟児が多かった年です.2年目の一般小児科研修で小生が学んだ年ですが,NICUの看護婦さんたちが点滴を実に上手にしておられました.医師は実質的には指示を出す程度で,救命のために看護婦さんの役割は今以上に大きかったのです.看護婦さんが末梢からの点滴が確保できないときは,さぁ小児科医の出番でした.臍帯静脈を確保するわけです.これは上手・達人になりました. 

 

6】この年,双胎の超未熟児がはじめて救命されました.

7】新生児用人工呼吸器はベビーバードR が1台でしたが,新生児に対する使用方法について経験を積んだ医師がいたわけでもなく,これによる極小未熟児の救命例はまだありませんでした. 

 

8】昭和54年3月の後半になって,百日咳で無呼吸発作重積の1か月児が入院し,NICUにて救命できました.ベビーバードR が実質的に稼働し成果を得た例です.

 

◆ 昭和54~55年(1979~1980年)

9】ベビーバードR の使用機会が増えましたが,救命例はありませんでした.昭和55年はNICU入院例が多かった年ですが,NICU入院適応基準が低かったようです. 

 

◆ 昭和56年(1981年)4月

10】未熟児の重症呼吸窮迫症候群に対して,人工換気療法が施行され,はじめて救命できました.
(前年度の1年間、自身が大阪の水準を学んで帰ることが出来た成果といえましょう。) 

11】10月31日に在胎25週,946g,アプガースコア6点,院外出生で,重症呼吸窮迫症候群の超未熟児が入院しました.人工換気療法で救命された超未熟児の第1例です.
〔M.O.:希望により平成6年8月にNICUを見学した彼女はまもなく13歳.
   「いっしょに仕事をしようか」「はいっ!」と笑顔で答えた彼女でした.〕
 実は、この女の子は、当時の多剤耐性黄色ブドウ球菌によるTEN(toxic epidermal necrosis)を呈した時期を乗り越え、退院後の成長発達も順調でした。座位姿勢でボール遊びをしている写真を付けた御礼の手紙をお母さまからいただいたこともありましたが、その後は音信不明の状況が持続していました。即ち、病院での医療を必要としない育ちが続いていたわけです。で、
 過日、東部医師会報を見ていましたら、学生の様子が掲載されており、ここに懐かしい個性的な姓名(M.Oさん)を見出した次第。年齢も合致しており、何と!産婦人科医院に勤めていたのです。
 勝手に想像したことですが、お母さんが、新生児期に助けられた命云々をお子に話しておられたであろうことが、今の職業選択に至った。「いっしょに仕事をしようか」「はいっ!」が、仕事場は違えど、現実となったのです。嬉しい限りでした。 

 

12】12月には網膜症を併発した重症糖尿病の母体から,帝王切開,在胎29週で出生した超未熟児を他院から連れ帰りました.560gのSFD児でしたが救命できました.
〔T.M.:中等度精神遅滞.~ a 胎内の劣勢環境.b 乳児期のミルク誤嚥事故
    残念な発達状況ですが,a も b も回復はできません.〕

※ この年の秋から,乳児ビタミンK欠乏性出血症の関連で,生後3週にヘパプラスチンテストを小児科医が生後1か月健診に代えて担当するようになりました.鳥大小児科の白木和夫教授の研究依頼に応えた形でしたが,研究が終了して後も,当院で出生した新生児は小児科医が診るシステムが定着しました. 

表1a 極小未熟児の生命予後:入院施設別状況

 鳥取県東部地域,1977~1983年

付:出生体重 1,500g未満

1:1次施設,2:2次施設,3:3次施設
(3次施設は鳥取県立中央病院、

2次施設は小児科医のいる病院)

◆ 昭和57年(1982年)

13】新生児用人工呼吸器は新鋭のゼクリストR とベビーバードR の2台でした.ところが,6月以降3例の超未熟児の入院が相次ぎ,さらに約1.1kgの重症RDSの極小未熟児も加わりました.医療器メーカー・他病院などから呼吸器を拝借し,4台が稼働しました. 

14】超未熟児は3例全例を救命しましたが,うち1例は24週0日でした.(以降,今日まで24週未満の症例は救命できていません.)

〔K.T.:後遺症を残すほどのエピソードはありませんでしたが,眼位異常を遺しており,“インタクト・サーバイバル”の難しさを思い知った例です.〕 病院の外来棟で、ある白髪の高齢者に呼び止められました。少し会話をして、その方がK.T君のおばあさんと分かったのです。「Kは大学に合格したのですが、滑りどめの大学で、目的の大学に行きたいとの本人の意志が強くて、今、浪人しています」とのお話でした。片方の目の視力が弱いことの話も出ましたが、幸い、運動麻痺、知的障害等がなく、本人の大切な人生の選択について、意志を強く抱いておられることなど、頼もしく思えた次第でした。  

15】NICUが超多忙となったため,組合騒動が発生しました.病院内で最も医療の変化の激しかった部門といえましたでしょうし,かつ,NICUの医療がいわば市民権を得ていなかったためともいえましょう.  現在になってみればあまりにも当然のことですが,NICUの医療は(NICUを要する1病院内に止まらないで)医療圏地域全体を対象とした医療であり,その成績も(NICUを要する1病院における成績ではなく)医療圏地域全体の医療成績が問われるわけです.このことが,当時の県行政はもとより,病院管理側にも理解できていなかったと考えます.もっとも,それまで実績がなかったわけですが・・・.)

 結局,この年度の後半は,院外からの入院要請に応えない対応が病院の方針として採られました.  後になって,昭和57年の新生児死亡率など母子衛生統計が明らかになるわけですが,この年の鳥取県の新生児死亡率はとても悪かったのです.全国ワースト・ワン!

(県東部地域の新生児死亡率は,地域別でも全国ワースト・ワンであったでしょう!) 

表1b 超未熟児の生命予後:入院施設別状況

 鳥取県東部地域,1977~1983年

 このときのくやしさをバネに「赤ちゃんに対して,ご両親に対して,そして,地域に対して,とてもご迷惑をおかけした.NICUは最後の砦ゆえ,決して入院拒否は繰り返さないように.かりに,満杯であっても,大学と連携をし,地域へのサービスは怠るまい」と内心決意をしたことを思い出します.

 

◆ 昭和58年(1983年)

16】この年は,前年度の余韻を受けてか,極小未熟児の入院率が低かったのです. 

表2 在胎週数と生命予後(極小未熟児)

 鳥取県東部地域,1977~1983年

 鳥取県健康対策協議会の関連で,昭和52年から昭和58年までの7年間に鳥取県東部地域で出生した極小未熟児の予後を検討しました.

 NICU入院の有無で検討すると,絶対数の多かったNICU入院例は,より在胎週数が短く,より平均体重が小さかったのですが,治療成績は,救命率は高く,かつ,神経後遺症を有した例の実数は3人と2人でNICU入院例が少なかったという結果でした.

 この頃は、NICUの、いわば宣伝も兼ねて、地元・鳥取県医師会発行の「鳥取医学雑誌」に(拙いのものですが)論文を書き続けていったわけです。

表3 後遺症を認めた症例(極小未熟児)

 鳥取県東部地域,1977~1983年

今振り返ると、これらが財産になって、地域的な新生児医療のシステム化が定着していったと(少しは自負して)理解しています。

[当時、鳥取大学小児科の白木和夫教授(現・名誉教授)が「大谷君、何故、君は地元誌にのみ論文執筆するのだね。中央に出せば良いのに!」と話しておられたことを思い起こします。]

 

◆ 昭和59年(1984年) 

17】地域で出生した極小未熟児の約9割がNICUに入院していました.また,新生児死亡例の約7割がNICUに入院していました.
 以降,この実績が5年間持続していました.

*全国:NICUの地域的システム化の程度を知る指標として,地域で出生した極小未熟児のNICU入院率がありました.これが8割あれば,その地域においては,NICUの地域的システム化が充実しているとの評価が可能でした.香川県の例がよく引き合いに出されていました.即ち,香川県でNICUが稼働し,新生児死亡率が劇的に改善したときの極小未熟児のNICU入院率が8割ほどであったことによります. 

18】鳥取県東部地域では,極小未熟児のNICU入院率は6割程度でしたが,昭和59年に急増したわけです.(昭和57年のことがバネになったのでしょうか・・・.) 


◆ 昭和62年(1987年) 

19】この年,超未熟児6例を含む,極小未熟児19人がNICUに入院しました.NICU開設後の最高記録でした.19例中致死的先天異常の2例以外の17例を救命しました. 

20】忘れられないツワモノや残念な例もありました.
〔K.O.:7月に28週0日,アプガースコア1分6点,732gで出生した男児でRDSが最重度でした.人工換気療法中に全身チアノーゼを来し,気道を吸引し,ゼクリストを調整しても回復せず,胎児循環遺残症を考えトラゾリンを使用したところ著効を得ました.また,動脈管開存が症候性となりクリノリルが著効したり,下気道感染や無気肺が加味したりで,慢性肺障害が強くなり人工換気療法が長期化しました.気道吸引後に気管支攣縮が関与したと考えられた全身チアノーゼを繰り返すなど,予後が心配されました.
 幸い,本例はインタクト・サーバイバルが得られています.〕
 この子は、やせ形ですが、野球部で頑張っていす。 「胎便吸引症候群と胎児循環遺残症を伴った重症新生児仮死の1治験例として」症例報告 してあります。

*1987年10月以降,人工サーファクタントが保険適応となり,重症RDSの治療が楽になりましたが,人工換気療法の技術に習熟していることが基本です.
〔N.K.:26週0日,アプガースコア5点で出生した女の子で 836gでした.幸いRDSの合併はなく,人工換気療法をしないで頑張りました.無呼吸発作が頻発した時期がありましたが,人工換気療法を行うことのマイナス面を考え,なんとか乗り越えました.体重増加は良好で,発達も順調です.〕 

*超未熟児に人工換気療法を行うと,慢性肺障害が必発で,体重増加が不良となり,発達面においてもマイナスになることが多々あります.
〔K.A.:習慣性流産で,高年初産となる母は,そのときも切迫流産にて,入院中でした.産科的処置を受け,看護婦さんから摘便を受けつつ,26週になって母の我慢が限界となり,出産になりました.生後1分のアプガー3点,出生体重938gで重度RDSを併発していました.全身チアノーゼを来し,徐脈,不整脈(2:1ブロック)があり,10.0mEq/lの高カリウム血症があったりもしました.
 幸い,成長発達は順調でしたが,歩行獲得後の1歳2か月に急性脳症を発症し,四肢麻痺とてんかんを遺しています.今,鳥取養護学校に通学しています.幸い,構音麻痺は軽く,有意語が増えています.〕 

〔A.M.:羊水過少,混濁があり,胎盤機能低下が著明で,在胎32週,帝王切開で出生しました.988gのSFD児で,出生時ヘマトクリット11.8%の高度の貧血がありました.ミルク開始前に気腹を来たし,開腹手術となりました.回腸に限局性の壊死性腸炎がありました.
 超未熟児で開腹した当院でははじめての児でしたが,精神遅滞と成長障害を遺しています.〕 

〔Y.O.:41週4日,胎児仮死,持続性徐脈にて出産に立ち会いました.羊水は胎便汚染が非常に高度で,出生と同時に鼻口内吸引をし,気管内挿管をし,バッギングを開始しました.アプガー1点で,NICU搬入後まもなくに痙攣重積となりました.クモ膜下出血を伴い,難治性であり,5日目になってやっと痙攣発作が減じてきました.
 予後がとても心配されましたが,成長発達は良好で,てんかんの合併もありません.〕

* ツワモノは超未熟児のみではありません.


◆ 昭和63年(1988年)2月 

21】人工サーワァクタント(サーファクテンR)使用第1例がでました.その効果は大きなものでした. 

22】人工換気療法にて救命例が出たした1981年以降1987年までの7年間の治療成績をまとめておくことにしました.人工サーファクタント導入後との比較のためです. 

 

23】当院NICUにおける超未熟児の治療成績についても検討しました.人工サーファクタントの効果が出ています. 

 岡山大学医学部出身者が大半を占めている鳥取市立病院の院長が、岡山大学産婦人科教授であられたことから、同病院の産婦人科スタッフが一新強化されました。で、鳥取県東部地域において、ハイリスク新生児の医療は?と、確認され、当院で行っていることに対して、その水準に付いて懸念しておられるような発言を受け止めました。治療成績をまとめた上記の論文など、NICU関連の論文別冊をお渡しした所「こんなに良い成績なのか!」と、高く評価していただいたことを思い起こします。これら一連の臨床論文が奏功して、その後は母体搬送や、緊急帝切において、(市立病院小児科医を飛び越して)当院の小児科医が、手術室に入り、出産に立ち会って、新生児を当院NICUに搬送したりの連携が、一気に定着しました。 
 

 

 2001年4月1日 本稿を読み返し、アップロードました。温故知新。


 現在は、超未熟児は超低出生体重児、極小未熟児は極小低出生体重児の用語を用いています。

 
_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ 文責:大谷恭一 _/_/_/_/_/_/_/_/

 

 最後までお読みいただきありがとうございました。いかがでしたでしょうか。

2008年 年の瀬 : 自身のPCを整理していて、探していたファイルがありました。この講演記録です。

温故知新・・・

 改めて、自身の生き様を振り返り、垣間見た感覚を抱いています。ひょっとしたら、今日、似つかわしくない[滅私奉公]の日々刻々の積み重ねの日々でした。1987年度当初は、前年度末からの病院の意向で、鳥取県立中央病院に骨髄移植(造血幹細胞移植)を導入するためのプロジェクトリーダーに選ばれ、全くのド素人でしたが、当時、原 宏 助教授の存在があって、関西でハイリスク例を手掛けていた兵庫医科大学輸血部に1か月間の国内留学を行い、その後、縁あって、大平睦郎先生が指導されていた国立がんセンター中央病院小児科の支援を得て、自家骨髄移植(自家造血幹細胞移植)も導入し、1990年度に発足した「自家骨髄移植の臨床応用に関する研究班」班員に招かれることになりました。これらの経過の中で、一層、滅私奉公的な(滅茶苦茶な)日々を積み重ねていました。

 平成年代は、さらに、病児を対象として発足した県立鳥取養護学校が、時代のニーズに応じて、脳性麻痺、重度重複障害児などを含め、実質、総合養護学校として機能していました。療育園同様、病院の敷地内にあり、学校医を兼務し、廊下伝いで行き来していたこともあり、文科省の養護教育のあり方に係る研究班員としても上京を重ねました。地元では県教委の地域教育活動を担い、講演・シンポジウムを重ね、地元の日本海テレビを通じた啓発番組にもレギュラー出演が続き、加えて、NHK鳥取放送局が(一本釣りの形で・医師会を通さず)レギュラー出演を継続したこともありました。

 公務員医師退職年齢を過ぎて3年目の半ばとなる昨今、心身のエネルギーは減退することなく、相変わらずの日々で、智頭病院勤務での余剰パワーは、クラシック音楽の研修成果を高めることに至っています。まさかマサカ、この5年で、聴く力が高まっているのを実感できる現況にあるとは・・・:自身、信じ難い研修状況にあります。体力面も、還暦記念の某事件的契機から(病院と自宅が駅から各々徒歩範囲内にある地の利も活かし)JR通勤としていますが、とくに、最近5年程度は、鳥取湖山間などで、吊り輪・手摺を持たないで立位バランスを保持する平衡感覚訓練、用瀬界隈からはドア等を活かして上半身の筋力トレーニング、下半身の伸展負荷等を、さらに、以前からの階段2段上りは、跨線橋等で(当直する日を除き、JR通勤の際は)毎日少なくとも150段登る日々です。1981年4月に中病に赴任し、翌年早春に暖房のない病院の一室で研究データのPC入力等作業をした際の早暁、椅子を立ち上がる際に、腰部に激痛が・・・。以降、中病児代は“こだらかしながら”しのいでいました。が、最近5年以上、腰痛のヨの字も忘れたかのごとくに至っています。

“こだらかしながら”~“こだらかす”は鳥取弁 出雲弁は“ほだらかす”らしい・・・ “こだらかす”が自身のオツムに定着!

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