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 〓感謝〓 
 “遺跡”発掘記 
諏訪神社御柱祭り
2004418日(日)

2003年11月に智頭病院に異動した翌年が、6年毎・式年開催の智頭諏訪神社御柱祭りの開催年でした。

右:ポスターの部分

2004年4月18日(日)は快晴に恵まれ、男性は力仕事・・・。

女性は? 子どもたちは・・・

 

次回は2022年4月の開催ですネ♪

2019/4/21 up

旧病院です。

諏訪神社に御柱が立った後、病院宿舎に戻りました。お囃子が近づくのに気づき、出ての遭遇!

ご祝儀もお渡しし、一段落した後に、再び駅前に出ました。下記は 17:04 の撮影です。

私たちは大輪の輝く花

宿舎に帰る道すがら某宅で撮影した可憐な花  17:17

 2004年4月18日() 全日好天に恵まれました。

 この日から15年余が経過しました。当時、5歳だった子は20歳を過ぎています。中央病院から異動し、半年に満たなかった当時は、今となれば、懐かしい顔が・・・

 自身も年齢を重ね、秋には郷里で〔古希の祝い〕があります。郷里は平田市(現 出雲市)で、平田小学校の昭和37年卒業生が集います。〔還暦の祝い〕に続き、9年目となる古希の宴を、小学校時代の仲間と集える機会を楽しみにしている身です。

 自身、想定外ですが、68歳半を過ぎた今も、智頭病院で小児科医としてフルタイム、とくに、病院の全科当直も若い医師と同等の回数をこなし得ていること、東部医師会 急患診療所の小児救急当番も最多回数をこなすことが出来ていることにも感謝至極です。

 智頭病院の小児科常勤医が不在になったことで、智頭町の出生数が急減しました。今年の智頭中学校3年生は50名を下回っています。ところが、今年度(2019年度)の智頭小学校新入学生は51名!

 鳥取県の人口が減り、出生数も減る中で、智頭町の人口も減っています。評価に値し得ることでしょうが、新1年生が増えているのは・・・!

 県外から智頭町への転入家族には、〔森の幼稚園〕もキーワードとしてあります。その創設者は、智頭病院に小児科があり、小生の資質を評価しておられます。

 一方、昨年度からは鳥取市医療看護専門学校から請われて、非常勤講師として、作業療法士学科 2年生に1枠90分・15枠の[小児科学]の講義をこなします。本音は“引き受けねば良かった”ですが、誰かが担わざるを得ないゆえ、或いは、適任なのかもしれません。祈りを込めながら、ミニ・ワークショップ方式を取り入れ、主体的に学習してもらうのですが、準備は大変です。自身、安易に教科書を基に、旧来的な方法で話せば良いのでしょうが、自身の体験からすれば、寝るか、集中を欠き、大切な時間・機会を軽んじることになります。えぇ、自身、高校・大学と、教える側の教師にしてみれば、不良な生徒・学生でした。今となれば、赤面の至りです。

エ?! 小児科医としては? 中病では?!ですって・・・ 幸い、及第点はあるのかなと思っています。

 臨床医としては、日々の診療のほかに、学会等の活動は必須で、業績と言うことになります。

 県立中央病院の小児科医の責任を担うと、保健・福祉や教育との関りが必須です。

 智頭病院に異動する前日(2003/10/31)に、当時の片山知事から全くあり得ないことですが、つまり、県知事が県職員に対して、表立って(日本海新聞に開示)「大谷医療局長に感謝状授与」と出たのですから・・・。

​ お笑いを誘う表彰状を含めて、今となれば、古き良き思い出・・・。(:自分史の“遺跡”発掘です。

myLife

↑ 県の教育表彰は2000/11か・・・

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智頭病院に異動する前日に、

← 片山知事との記念写真

(2003/10/31)

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鳥取療育園の園長は、平成元年度(当時38歳)からで、職員に誘われて、初めて参加したら・・・ ↓

恩師 故 竹下研三先生あっての学位です。自身、ガラではないと拒み続けていましたが、教授として最後だから・・・で、最終の教授会に間に合った次第でした。それ以前、「これで博士号論文だ」の教授発言が2回・・・。その都度、博士号を得るに値する資質ではない云々と、命に従わずでした。そして、3度目の際には、「退官だ!最後の教授会に間に合うから・・・」でと。全くもって、不出来な弟子・不肖の輩と自認します。

 = = = = = 

その後、鳥取療育園の保護者会主催のボーリング大会()でも表彰されてからは、ボーリングとは無縁です。

鳥取県医師会の第1回鳥取医学賞を受賞し、さらに第8回も受賞(当時、2回の受賞は唯一で)表彰状は額に入れ、自身が良く使うトイレの壁面に掲げてあります。(笑)

付: 業績集 ]​

今になって確信しますが、人の評価より自己評価が大切・・・ 

自身の人生であり、自分で自分を是と評価できれば、​「わが人生、幸せで、感謝に値する」と確信します。

男たちの勇壮な姿を見る

 写真館新館 

【私の趣味?】 

※ 個人的な事件 : 個人史に残る1998年のイベント:余禄

♪個人的な事件 : 余禄♪
 平成12年年6月 : ささやかな第1位 ~ とっても嬉しい第1位 ~ 鳥取療育園の保護者と共に


 鳥取療育園の明るく、ステキで、元気いっぱいの保護者の方々と職員有志が集って、記念すべき「第1回ボーリング大会」が開かれました。若々しいお母さんパワーに圧倒されてか(?)、自身としては点数は伸びませんでしたが、結果的には、思いがけず、とっても嬉しい、栄えある「表彰状」をいただくことが出来ました。嬉しくて、記念のページを作った次第です。

 実は、昨年(平成11年)秋に無理をして右上腕を使い、急な痛みを覚えたのでした。これが徐々に、痛みを増し、とくに、気温の低下とともに、可動制限も伴うようになった次第。満50歳になって間もなくの五十肩・・・肩関節周囲炎! 

 今年になり、一層可動制限が強まり、力が入らなくなり、寒くなると痛みも強くなり、とくに、明け方は指先までシビレたり・・・。お陰で?!、随分早起きでの仕事・・・。ついに、カミサマの知るところとなり、局所を暖めるべく、ススメに従って慣れないホッカイロを使用した次第。これを就眠前に貼って寝たら、別の痛み感を覚え、有痛性のシコリを2カ所につくってしまった。低温熱傷と診断!
 これがなかなか治らないで、力も入らず、右上肢の挙上が出来ない。困惑しつつも、ある種の障害学習体験だと、妙に納得して、日々、痛みと、可動制限に付き合ってきた。勿論、健康のありがたみを感じつつの日々。新年度を迎える頃になって、シコリが小さくなり、圧痛も減弱し、これと共に、痛みが弱くなり、可動制限も徐々に軽快していった。6月に入り、良さそうだと感じて、ストレッチを強めに行ったら、再び、疼痛が増強し、可動制限がまた若干強まった。丁寧に、大切に付き合うことと、妙に納得し、過ごしていた。

※ 6月16日(土)鳥取療育園の保護者と職員有志が集ってのボーリング大会! ※

 さて、ボールが投げられるかどうか、とにかく、肩は大きくは動かさずになど、イメージしつつ、練習ボール。指のフィットの関係で、14ポンドのボールを選択せざるを得なかった。最初の投球で、やや痛み。振り方を小さくなど、自身で調整し、本番。微妙なコントロールが効かない!

 お母さん方は、ストライク! スペア! その都度に、ハイタッチや拍手で嬉しさを共感・・・。徐々に肩が暖まり、痛みを覚えず、投球できるようになったことに、内心ホクホク。
 が、2ゲームの終わり頃まで、コントロールが安定せず、やらやっと、最後の10フレームにおいて、ストライクの連発 9フレームのスペアも加味して、これらでスコアがアップした。

 ボーリングは、相手がいて、実はいないスポーツですね。相手と直接闘うわけではなく、鉄棒などと同様、自身がどのように玉を投げることが出来るかどうかにかかっている。周りの目を気にせず、他の人の点数を気にせず、とにかく、丁寧にその度ごとの投球を積み重ねていくのみで、勿論、心身の体調が安定していることが願わしい。

 

 今回、右肩を壊し、かつ、実は、30年来の古傷を抱えている左膝も調子が悪かった。さらに、これらにより、心的にも安定を欠いていた。

 結果として、膝が高かったのでしょう、玉を手から離した途端に、玉が前方回転をしていたこともあり、スプリットがいつもより多かった。

 調子の良いときは、玉を離した際には、ほとんど前方回転することはない。1ピン残したスペアの獲得率も、とても悪かった。

 結局、調子の良いときの状況には至らず、2ゲームを終えた次第でした。

 

 今回は、とにかく、記念すべき第1回の保護者と職員有志のボーリング:十二分に楽しめましたし、自身にとって、何よりもボーリングが出来たこと自体がとても嬉しかったのでした。
 そう、懇親会も、十二分に盛り上がりました。途中からは、アルコール酩酊状態に陥り 、・・・ 迷惑がかからないように、1次会でそっと失礼したのでした。

(2010/ 8/21 up)

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