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 本講演内容は、鳥取県教育委員会「平成元年度、すこやか子育てセミナー『今子育てに問われていることは- 心豊かでたくましい子どもを育てるために-』第4回すこやか子育てセミナー」の講演(9月14日、倉吉体育文化会館)を聞いてのメモ書きを基にして記載したものです。講演者が意図されたことと、若干のニュアンス等ズレがあるかと思います。

 このようにまとめた理由は、講演内容がすてきであったため、これを少しでも多くの子育て途上にある方々に知って欲しい、そして、地域社会で子どもたちを見守る我々が、少しでも子どもたちの実態を知りたい、との願いからです。

平成元年9月 (文責:大谷恭一)

講演要約(要約筆記)

こどもは名タレント-泣き笑い取材日記より-

日本海テレビ放送製作副部長(当時)  三田三香子さん

〔幼児の世界担当ディレクター〕

 今年(平成元年)は「すこやか子育て」の副題ですが、「幼児の世界」は、昭和48年から放映していますから、17年目になります。年間26本放映していますから、もう400本以上になりました。よく続いたなあ、と思います。 
 取材を通じて思うことは、「子どもは名タレントだな」ということです。笑っていても、泣いていても、実に表情が豊かです。一方、なかなかよい画像をとらせてくれない場面があり、こちらの思うままになりませんから、スタッフは泣かされ、そしてまた、笑います。

 今日は、私の取材日記からお話ししてみたいと思います。それでは、日記をひもといてみましょう。
 

 3歳5カ月のケンちゃん。取材の目的は『生活習慣の自立』でした。その日の日記のタイトルは『アンコールに答えてくれない』となっています。歯をみがくシーンを撮影するため、その日の朝は7時に取材に出かけました。訪問すると、その日に限って、「6時半頃に起きて、もう、歯をみがいてしまったんです」と、お母さんが申し訳なさそうにおっしゃいます。「もう一度みがいてくれない」と頼んでも、「もうみがいた。みがかない」と、相手にされない。仕方ないので、翌朝は5時に出社しました。

 テレビ局というのは、一般に朝が遅いのですが、そうも言っておれないわけです。「さあ、なかなかいいシーンだぞ」というときになって、「フィルムがなくなりました」と、カメラマン。当時はフィルムの時間が短く、また交換にも時間がかかり「さあ、ここぞ」というときにフィルムがなくなることもあったんです。また、ネジで廻しながら撮り、カメラが回らなくなったら、またネジをまわして、といった状況で大変でした。今は、カセットの交換だけで済み、30分くらいは持ちますから、随分よくなりました。このときは、結局3日目になってやっと1分間位とれたんです。
 無理やりでは、いいシーンがとれません。待ってあげて「名タレントぶりを発揮させる」ことになるわけです。いわばNG、取り直しですね、「NGのない世界でもある」といえます。けんかの場面、反抗する場面やくせ、指しゃぶりなどのくせの場面など、撮り直しはできないわけです。子育ても一緒でNGのない世界ですね。ただ、番組は編集が効きますし、一方、子育てはそうはいかないから大変だと思います。

 

 次は、2歳10カ月のナナちゃん。『絵を書く、ハサミを使う』というのが取材の目的で、日記のタイトルは『コケコッコーがないた物語』です。このときは、カメラマンが「コケコッコー」と素晴らしい物まねをしたんです。 
 ナナちゃんの得意な絵を書いてもらいたかったのですが、室内にカメラが入ると、室内のことですから照明も必要になるわけですが、威圧感を感じて、普段の遊びが出来なくなることがあるんですね。お母さんにくっついて書いてくれませんでした。
 取材はカメラマンと、音も担当するカメラ助手、そして私の3人のスタッフで行うんですが、知らない男の人が見慣れない様子であるので、子どもは緊張してしまうわけです。

 私たちは怪獣遊びをしたり、一見楽しそうに見えますが、子どもたちの遊びの流行を学んだりするわけです。以前ですと、ヘンシーンとか、チョットダケヨや、ピンクレディのUFOの振り付け、踊りなどですね。今ですと、アンパンマンやドラエモン、そしてテレビ局は違いますが、子どもたちには関係ないわけですから、お母さんといっしょのジャジャマルくんなどですね。子どもたちと仲良くなって、仲間になって、その日はオワリとなったんです。
 翌日の日記の標題は『ふられふられの物語』となっています。お母さんからの電話で、ナナちゃんが発熱してしまいました。「いいですよ。大事になさって下さい」と、お答えせざるを得ないわけですね。病気には勝てませんから。おまけに午後は雨。予定していた屋外の取材も延期です。しかし、放送日は待ってくれません....。

 

 3歳のジュンイチくん。『ボタンをはめよう』が取材目的でした。日記は『笑顔をうばわないで』のタイトルでした。出来たときの喜びの表情を映す、映したいというのがねらいであったわけです。
 小さな子の“ボタンはめ”は、まどろっこしいですよね。じっと見守るのはとても難しい。つい、手が出てしまい、つい「ホラ、ちがうじゃないの」と言ってしまう。大人と比べて、子どもはよく根気が続く、それは驚くべきことだと私は思います。やろうと思っている子どもの気持ちを、そこなわないようにしたいものです。 
 「大きくなって“ボタンはめ”はみんなが出来ている。だから時間がかかる子どもたちに“ボタンはめ”をさせなくてもいいではないか」との意見もありましょうが、子どもには、出来た喜びが大切なわけです。喜びを感じることの出来る時期に、必要な体験を、ぜひ積み上げてほしいと思います。

 お手伝いのことですが、小学生は手伝わない、と問題にします。小学生になってからでは困難で、2、3歳児はよく手伝おうとします。少しずつでもやらせてほしいのです。喜びの体験を積ませることこそが大切だと思えるのです。ゾウキン。小さな子はしぼれないですから、水がポタポタ落ちるんですね。お母さんにとっては困ったことになりますが、これをカメラで追うのにはいいんですね。ビチャビチャが困ることよりは、子どもの喜び、生き生きした表情を大切にしたい、と思います。

 次に『泣く役だとは言えない』と題しての取材日記から。泣いたカラスが、また笑う。泣き笑いですね。要は、けんかして泣くシーンが撮りたかったわけなんです。
 

 マスミちゃんとユミちゃん。二人がトランプをすると、取り合いで、どちらかが泣く、ということで取材に出たのですが、その日は仲良く遊び、取材にならない。こちらが、けんかや反抗するシーンを撮りたいと思っても、真反対の状況であったりします。「トランプ遊びでは、決まって泣くんですが....」とお母さん。結局スタッフが泣きました。 
 大人が思うほどには、けんか・反抗・泣くということは、ないのだろう、大人にとって困ることなので、目立ってくるのだろう、と思えるわけです。

 けんかは、自己主張がはっきり出る場面ですよね。けんかはやらせるべきだろうと思います。けんかは、その子がいっしょうけんめいになっていることの現れですから。 今、けんかをしないこと、反抗しないことが、問題になっています。宮崎勤事件でも、彼は幼い頃にとてもおとなしかったと伝えられます。勿論、けんかで危険な場面は止めねばなりませんが....。おもちゃの取り合いで、泣かせて取った子の表情も決してよくはありません。しばらくして、ゴメンネなど、また仲良くなる。
 けんかの中にも、多くの表情、大切なことがあります。最近は『いいけんかの場面』が撮れないんです。例えば、今、欲しいものがあって、それがダメとなると「ボクのがない」と、先生のところへ行く。大人に安易に助けを求めてしまう。番組開始当初は、いいけんかのシーンが多く撮れたものです。

 

 泣いているとき、笑っているとき、などナド、子どもは名タレントです。いい表情を持ち、いい素材を子どもたちは持っている。それをいかに引き出すかが大人の役目といえます。そのためにはどうするか、私は3つのことを述べたいと思います。今後の育児のヒントになれば幸いです。

 

 最初は『カメラの目』、カメラの目をもつ、第3者の目をもつということとも言えましょう。これが第1点です。子育てとは、子を知る、子をとらえる、ということだと言えるのではないでしょうか。じっと見ていると、だいたいのことは分かります。対応の仕方も変わってくることでしょう。
 アップの目。家庭では、ついアップの目でみてしまうのではないでしょうか。ロングの目で見ることが必要でしょう。ちょっと引いた目で見る、ということです。ロング、アップ、ズームイン、ズームアップなどカメラの目にはいろいろあります。お子さんを少し距離をおいて見るのはどうでしょう。
 保育参観においても、わが子だけでなく、ほかのお子さんも見る。そして、わが子も見るのですね。そこで、何に興味をもっているのかを知る。興味をもっているときにそれをさせることが、もっとも子どもが能力を伸ばすとき、伸びるときといえます。

 

 次は『手と口の使い方』のことです。これには2つの意味があります。ひとつは『手はひざに、口にはチャック』ということです。お子さんにすぐ手をかける、ではなくて、また、すぐ口だしをしてしまう、ではなくして、見守ってやることが大切なんだと思います。大人自身、平素心がけたいことだと思います。
 そして、お子さんが出来たときには『拍手し、言葉で誉める』こと、これが『手と口の使い方』の2点目です。出来た、という喜びに対して、しっかり手を使った動作と、言葉で、誉め、共に喜べたらいいなと思うのです。

 『お母さん、笑顔をしてますか』、感動していますか、楽しんでいらっしゃいますか。これも大切なことだと思います。案外忘れてしまっているのではないでしょうか。笑顔は、ゆとりのあるときに生まれます。朝起きて、鏡を見て、笑顔をしてみることはいかがでしょうか。子育てには、親が楽しむ、リラックスするということが欠かせないと思えます。そして、子どももリラックスできるわけです。また、楽しめるわけです。親自身が遊ぶ、リラックスするということが、案外少ないのではないでしょうか。ご両親がお子さんと遊び上手になってほしいと思います。

 

 最後になりますが、『育児日記のススメ』について。私は、取材日記もですが、育児の頃は育児日記もつけていました。子どもの名タレントぶりを記録していくわけです。書くことで子どもたちが、そして自分も、見えてくるわけです。気楽に続ければいいのです。そして、子どもたちが少し大きくなってから、読んで聞かせるんですね。すると、自分のことを考えてくれていた、といいますか、認められている、信頼されているということを分かってくれるんです。また、子どもたちから母親が信頼されることにもなるわけです。私は、私の母が育児日記を書いていたことから、これを学びました。 
 

 今日のお話しが、少しでもみなさまのお役に立てば幸いです

  

< 追 記 > 
 このページを復活させたのは、2008年7月31日 ・・・ あの日から約20年が過ぎようとしています。当時、家庭教育の重要性が唱えられ、県教育委員会では大きな予算を組んで、地域教育を展開していました。つまり、県内各市町村を巡回しての講演やシンポジウム、そして、座談会的な子育て相談と個別相談などです。さらに、地元テレビ局との連携で、「幼児の世界~すこやか子育て」と題したテレビ番組も続いていました。

 自身は、三田さんが講演された年、平成元年(1989年)から同委員を拝命し、活動を担っていました。
 (今夏、感染症の流行が極めて小さいこともあり、久しぶりに、温故知新として、)今、三田さんの講演内容を読み返しましたが、褪せることのない、子どもたち・親の育ちの大切な・かけがえのない様が、それこそ、映像のように、生き生きと読み取れます。

 参考にしていただければ幸いです。

< 追 記 の 追 記 > 
 さらに10年余が過ぎました。今、あらためて通読すると、当時共感した際と同様の穏やかで微笑ましくなる思いが湧きます。人生の先輩である三香子さんが講師となったのはこの時が最初で最後のはずです。鳥取県教育委員会が責任母体で、日本海テレビに委託して作成が続けられた3歳児を主体とした〔幼児の世界〕、そして、平成年代になり乳幼児に枠を拡げた〔幼児の世界 すこやか子育て〕の、当時現役仲間が、「いつも三香子さんに強要・指示されている。たまには三香子さん自身が・・・」と、半ば冗談で話していたことが、“瓢箪から駒”で実現しました。ただし、テレビ放映の機会ではなく、各地を巡る地域教育活動における講演でした。数人の講師が、自己紹介的に各々短い話をし、メインの講義を置いて、その後はグループ別討議、そして、個別相談を設定する方式が一般的でした。

 テレビ番組は、15分枠でしたが、コマーシャル等が入り、実質14分程度で、前後に司会者が主題や講師紹介をし、主体は13分40秒程度でした。ある年、三香子さんが驚愕的な提案をし、押し切られました。それは、鳥取市田園町に新社屋が完成した記念を兼ねてのことでもあり、1階のホールに聴衆を入れて、講師が各々13分40秒で、ミニ講演をする方式でした。

 司会の彼女は、「・・・では、どうぞ」のみで、その後は、講演台の前で、テレビカメラと格闘技!

 流石に初年度は、原稿を書き、妻を相手に読み、時間を図り、イチかバチかで本番に臨みました。恩師でもある当時の岩宮 緑 院長が、「オイ!大谷君!顔を(講演台に置いていた)原稿にやるのではなく、聴衆を見続けて話せヤ。おまえなら出来る!」と。ならばと翌年からは原稿どころかメモもなしで臨むようになりました。一方、控室では三香子さんがリハーサルを強要し続けました。他の講師は素直に従いましたが、原稿・メモを持たない小生はぶっつけ本番を決め込んでいたので、リハーサルはトホホだったのです。

 本番?! えぇ、聴衆を見つめながら、ジェスチャーも交え、テレビカメラも見詰め、「残り3分」・「残り1分」・「あと30秒」のボードや、10秒からは指折りで示すスタッフの存在に顔を緊張させることもなく、ドンピシャリで終えることが定着しました。

 後日談的なことですが、NHK鳥取放送局が小生をレギュラーにして、子どもの育ち全般、感染症などの話題を話したのですが、リハーサル本番が定着しました。最初に、放映枠の時間を確認しておき、事前に、設定した内容に係る資料を届けて置き、画面で、テロップと合わせて確認し、放映本番と同じ環境での録画収録でした。(日本海テレビのみならず)NHKでも!NGがありました。これは環境に物が落ちたとか、技術的な不具合で、自身の責任によるNGは記憶がありません。(表現の修正を願っての再録が1・2回はあったはず)

 NHKでの“圧巻”は、アナウンサーが乗ってきて、7分の制限時間を過ぎそうなタイミングで、小生がまとめをして終えたこと!

 智頭病院に異動後、NHKが小生のことを話題に取り上げました。「何故、智頭に異動したか?」 事前に打ち合わせがあり、それを基に台本が作られていました。本番では、勿論、定番的に、アナウンサーの問いに、即興的に答える方式で台本の文章・言い回しにはとらわれずでした。NHK鳥取放送局に出かけての収録が2003年11月25日(火)で、放映は27日(木)[とっとりまるごと610・ズームインこの人「地域でいきいき子育て~智頭病院小児科大谷恭一さん」]の放映でした。記憶を逸していますが、今、手元にある台本を見ると「VTRインサート 診察の様子 26日撮影」や「歓迎のアルバム」・「小児科モニター募集の用紙」のワープロ文字があります。

 智頭病院に異動したが、11月1日でしたから、随分早い収録・放映だったのですネ。

 これ以外は、全て中央病院小児科(兼務での療育園長)時代のことでしたが、実はテレビの全国放映は4回あります。今となれば時効でしょうし、“温故知新”として記録・ご紹介しておきます。(順不同)

骨髄移植への道:日本テレビ系列の日本海テレビは、先駆けて、先輩がこなした腎移植を取り上げ、評価を得ていました。小生が関わったのは1987年度当初の国内留学で、骨髄移植チームを立ち上げた経緯を基に、収録が繰り返され、翌年度に放映全国放映されました。実は、この番組を国立がんセンター中央病院の大平睦郎医長・医局員が見ておられ、専門医でない小生が無鉄砲にも自家骨髄移植導入に際して、困窮していた転移が進んだ難治性腫瘍の小学生について相談をした際に、放映されたテレビ番組が共感性を高める上で役立ったようでした。
来日時の音楽事務所による紹介は、ツィグラー教授率いる「ウィーン国立少年少女合唱団」で、梨花ホールでの公演の前に、朝、鳥取砂丘を訪ねた後、鳥取療育園に立ち寄ってくださいました。

 スタッフが合唱団の子どもたちも交えて、日本の手遊び歌などで、園児・保護者と共に交流したら、ツィグラー教授が園児を抱き、母国の手遊び歌を披露してくださいました。勿論、合唱団の合唱も披露してくださいました。その後は、皆が鳥取名産のスイカを食べてのひと時も・・・。

 一段落した後、ツィグラー教授は「思うに総合病院であり、小児病棟にも子どもたちがいよう。そこでも歌わせろ!」と言った申し出をされました。「小児病棟は天井が低いし、スペースも狭い。子どもに限らず、大人の入院患者を含めて、1階の天井の高いロビーで歌ってください」と、逆提案し、急ぎ事務部にも連絡・交渉し、実現しました。

 こうした企画は、県を通じて報道各社に事前に通知されます。新聞各社に加え、テレビ取材も入って、微笑ましい交流だと、園長(小生)へのインタビューを含めて、放映されました。

新生児盗難事件:名前を伏せますが、鳥取市内の産科医院で新生児が連れ去られ、全国的な事件になりました。

 休日で、非番だったある日、病院から、それも事務部から電話が入り、「赤ちゃんが発見され、中病NICUで健康確認をすることになった。病院前には報道各社が揃っている。これに対処を・・・」との趣旨でした。

 市内で、家族連れでの買い物中でしたが、中断して、病院に着くと、初めて見る大型のパラボラアンテナ付中継車など、報道関係と分かる車両が数台。赤ちゃんを診て、健康評価した上で、1階ロビーに設定された会見場で、(いつものテレビカメラの前での笑顔はなしで!)説明し、質疑をこなしました。

医療局長を任じされた2002年度、9月当初に、事務部を通じて、県の企画部長が小生を訪ねてこられました。文化の国体との紹介がある「国民文化祭」の鳥取県開催は承知していましたが、何と、開会となる当日に、梨花ホール医での開会式典に引き続くイベント[交響詩とっとり]の「都の大王」役で出演依頼で、本番は10月12日(土)でした。役職柄、躊躇したのですが、院長、病院事業管理者とも子すんなりと「受けたら!」とのことで、どうやら、事前に了承が得られてのことだったのでしょう。

 受けることにして、内容を聞くと、「鳥取県の名所・文化等係る映像と1998年度(12月鳥取公演、1月米子公演)に県責任主体となり、県民の関係者を募って上演した、県民創作ミュージカル〔茜飛天〕を基にした演奏とバレエなど」とのこと。

 天女である茜の羽衣伝説(倉吉市)と鳥取の地名伝説も兼ねた物語で、都の大君の皇子が「とりだ!・・・」と茜(実は白鳥)を指さして、生まれて初めて言葉を発する以外には、台詞は都の大君のみであることも知ったのです。

 1998年度の際は、約1年前に県民ミュージカル企画や参加者募集等の地元新聞紙の記事を読んでいたが、練習に7割以上の参加が求められるなどで、勿論、あきらめ、忘れていた。が、マラソンに例えるならば、折り返し地点界隈となる7月初旬に、ご近所さんを介して、わが妻に打診が入った。「代役で出て欲しい」と。代役なら、責任も軽いし、何せミュージカルゆえに、是と即答した。

 後日、妻が「あなた大変よ!台本の最初にある仙人ヤツミミ役・・・」で、夫婦そろって県民文化会館に話を聞きに行き、受諾した。

 台詞が多く、ソロも4曲!・・・。

 この際に、合唱を除いて歌のない都の大君役を担われた鳥取演劇界の大御所的な方が、2002年も都の大君役を担って練習しておられたのだが、おそらくは高血圧等での身体不調で、約1か月前になっての辞退だったのでしょう。

 事務局・県は困惑至極だったでしょう。で、白羽の矢が当たったのが小生でした。

 練習は、平日は欠席を容認してもらい、休日のみに限られていました。本番前になり、NHKエンタープライズが入っての舞台作成共知りました。本番直前のリハーサルまでは、テープ録音した音源やピアノでの部分的な練習が続いていましたが、オーケストラピットにオケが入っての通し練習では、流れが悪いことに気づきました。

 それまでも、小生演じる都の大君、妃・皇子の舞台でのパントマイム、即ち、映像やバレエの際にも舞台に居続けるわけです。が、細部にわたる演出指示がなかったので、小生が妃・皇子を含めた演出をこなしました。

 さて、本番前日、担当者は各々の仕上げ作業で大変!で、小生が責任者に流れが悪い内容の話をしました。即ち、「ととり(鳥取)と名づける!」と発した後、オーケストラが祝賀的な曲を演奏し始めるまでの間が長過ぎる間、音楽が流れ始めるまでの間、歌舞伎での大見得を切るがごとくの大きな動作で保つことを提案したら、あっさりと「それで行きましょう!」と。

 開会式典には皇太子・妃殿下がご臨席され、引く続いたオープニングフェスティバルは設定された2階席でご覧になられました。勿論、全国からの来賓の方々なども・・・。1階席は抽選に当たった県民などで満席でした。(小ホールではライブビューイングも!)

 大見得を切った際に、客席からは、何と!想定外でしたが拍手が沸き上がりました。

 実は、本番用の最終プログラムが出来上がるまでは、「交響詩とっとり」の<出演>紹介は団体名のみでした。ところが、本番プラグラム本には、唯一の例外で「大谷恭一(演劇:大君役」とあったのです。小生を知らない人は、中央(東京)から招かれたとの理解での話があったとのことでした。

 この際も、テレビ放映、新聞で紹介されたわけです。

テレビ:出演
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